
「4月22日、インド領カシミールのリゾート地で、武装勢力が少なくとも26人の観光客を射殺した」
「警察は、紛争地域のリゾート地・パハルガムから約5km離れたバイサラン・メドウドで発生したこの襲撃について、インド統治に抵抗する武装勢力によるものと断定した。2人の上級警察官によると、少なくとも30人が負傷し、その多くが重傷だという」
核戦争に発展するのか
筆者はインド領カシミールには何度も訪問し、これまでも現地でインドとパキスタンの領土をめぐる紛争やテロ活動を取材してきた。今回の事件はカシミールに暮らす人たちにしてみれば特に驚くようなものではない。ただ今回はどちらも核保有国であるインドとパキスタンの両政府の関係に緊張感が高まってきており、その動向からは目が離せない。そこで日本人にはなじみの薄いインドとパキスタンのカシミールの領土問題に起因する「カシミール紛争」について紐解いていきたい。
そもそも、カシミール地域とは?
カシミール紛争といっても、報道でテロや暴動、抗議デモなどが発生したと聞く程度で、実際に何が争われているのかはあまり知られていない。
ちなみにアザド・カシミールは自治権を与えられており、パキスタン政府がテロ組織を活動禁止にしてもその効力は届かない。政府の活動禁止命令はこうした地域には及ばないため、テロ組織は堂々と活動を続けているのだ。
カシミール紛争の経緯。どのように“印パ停戦ライン”ができたのか
カシミール紛争の始まりは、インドとパキスタンがイギリスから独立した1947年にまで遡る。独立に際し、イギリス領インド帝国で自治権を認められていた565の藩主国は、それぞれヒンドゥー教徒が多数派のインドと、イスラム教国パキスタンのどちらに加わるのかを選択するよう迫られた。カシミールのマハラジャ(藩主)だったハリ・シングはどちらに帰属するのかを決められなかった。なぜなら、ハリ・シング自身はヒンドゥー教徒だったが、住民の大半はイスラム教徒だったからだ。インドの初代首相で先祖がカシミール出身であったジャワハルラール・ネルーは、カシミールに特別な愛着を持ち、是が非でもインドに取り込もうとマハラジャに繰り返し働きかけた。
ネルーはカシミールが「自分にとって何よりも大事だ」と説明しながら、閣僚との協議の際に、泣き崩れることもあったという。
独立したパキスタンの総監であるムハンマド・アリー・ジンナーは、イスラム教徒の民意を汲む意味でもパキスタンへの帰属を望んだ。結局は、パキスタンの北西に暮らすイスラム教徒の部族たちがパキスタン新政府の支援を得て蜂起(ほうき)し、カシミールのプーンチ丘陵地区への侵略を行った。もともと武装していた彼らは、武力でカシミールを確保しようとしたのである。
カシミールのハリ・シングは、武装した部族の攻勢に対してなす術がなかった。1947年10月22日、ハリ・シングはインドに対して公式に助けを要請した。結局、部族地域の勢力はインド側のカシミールを確保することはできなかった。こうしてカシミールの3分の2はインドに組み込まれ、ジャム・カシミール州となった。
そして、その際に「印パ(インド・パキスタン)」を分けたラインは「停戦ライン」として実質的な国境になったが、第3次印パ戦争の後に実行支配線と呼ばれるようになり、カシミールの分断が「固定」された。これが今も続くカシミール紛争である。