連続殺人鬼ものサスペンスへと変貌を遂げた『PLUTO』
そのように複雑な感情を抱かせる「地上最大のロボット」は、それでもやはり大筋の物語はシンプルですし、ロボット同士のハラハラする戦いを主体とした少年向けの漫画作品でしたが、『PLUTO』は大胆なアレンジが施され、ジャンルそのものが変わっているといえます。例えば、「地上最大のロボット」におけるプルートゥは、序盤からアトムに自分の正体と目的を明かしたりと、「はっきりと姿が見える」キャラクターだったのですが、『PLUTO』では(中盤までは)どんな姿をしているのかも分からない、謎めいた恐ろしい存在として映ります。しかも、ロボット同士の戦いそのものもはっきり見せず、周りの人間の言葉で「悲劇が起こったこと」を想像させる場面も多いのです。
さらに大きな変更点が、物語の始まりから登場する実質的な主人公がアトムから、ロボット刑事のゲジヒトへと変更されたこと。ゲジヒトは「地上最大のロボット」ではわずか7ページだけ登場する、プルートゥのターゲットの1人だったのですが、『PLUTO』では彼の目線から事件の捜査と推理をする場面、はたまた彼自身の人生を見つめ直すドラマが多いのです(アトムの活躍も描かれます)。
この2つの大きな変更点により、『PLUTO』はまるで映画『セブン』や『羊たちの沈黙』のような「連続殺人鬼ものサスペンス」へと変貌を遂げたといってもいいでしょう。前述したように紳士的な面もあり、どこか人間臭さも感じさせたプルートゥを「正体不明の不気味さ」もある存在にしたことも含め、それは「地上最大のロボット」が好きな人からは否定的な声が上がる理由でもありました。しかし、名作をそのままリメイクするのではなく、独自のアプローチで先人のメッセージを確かに届けようとした、浦沢直樹の覚悟を感じる最大の評価ポイントだとも思うのです。
ほかにも、プルートゥに襲われるロボットそれぞれ、はたまたそれ以外のキャラクターのドラマもより掘り下げられ、現実の「KKK」を思わせる反ロボット主義者の組織に属する者の事情や、過去の戦争の悲劇による「後遺症」、主人公のゲジヒトの「記憶」にまつわる謎もフックとなり、世界観や背景はさらに重厚なものになっています。さまざまな含みを持たせる会話劇が多く、キャラクターぞれぞれの思惑や真相にまつわる事情がかなり複雑化しているため、はっきりと大人向けの作品へとシフトしているのです。
個人的に「原作を踏襲しながらも独自の魅力を打ち出した」シーンを1つ挙げるのであれば、アトムの妹のウランと、プルートゥの交流です。まったく違った関わり方になっていながらも、2人が一時的には友達になれたような、かけがえのない時間と光景が確かにあったのだと、「IF」を見られたような感動があったのですから。
完全なロボットの存在が人間の感情と業を示す
さらに、『PLUTO』が「地上最大のロボット」から大きく膨らませた要素として、「感情」にまつわる問いかけがあります。劇中には「完全なロボット」を生み出す過程において「世界の人口の90億人(原作では60億人)の人格を分析してプログラミングした」「ありとあらゆる選択と可能性を人工知能に詰め込んだ」と語る場面があり、そのロボットはそのままでは目覚めなかったものの、「偏った感情を注入する」ことで「混沌をシンプルに解決する(目覚めさせる)」ことができたというのです。
その偏った感情とは、怒りや悲しみや憎しみ。それがあってこそ、人間に近い、いや完全なロボットが生まれるという理論なのですが……当然と言うべきか、その危険性も示されます。序盤から「殺人を犯したのに人工知能には欠陥がなかった」ロボットが登場しますし、とある悲劇的な過去にも偏った感情、特に憎しみが強く関わっていることが分かるのです。
この理論は、確実に手塚治虫の思想を踏まえたものでしょう。『鉄腕アトム』の「電光人間の巻」では悪役が「完全な芸術品といえるロボットなら、人間と同じ心を持つはずだ」「完全なものは悪いものですぜ」と語る場面がありますし、「アトラスの巻」では人間の復讐(ふくしゅう)心を背負わされたロボットの悲劇が描かれていたりもします。
その偏った感情により悪逆的な行為をするのであれば、ただプログラムされた通りの行動をするロボットではない。それは完全なロボット、いや人間である証拠だ……と言い換えてもいいでしょう。それは一種の「シンギュラリティ」でもあり、人間と見分けがつかず、かつ善良に思えたロボットであるアトムやゲジヒトも、人間のように「自分の意思で」「憎しみによって」危うい行動をする可能性があることも示されています。これは、人工知能(ロボット)をただプログラムされた存在として描きつつも、それでも人工知能のそのものの尊さを示したSFアニメ映画『アイの歌声を聴かせて』とは好対照の問いかけともいえるでしょう。
そして、そうした偏った感情を持ち、悪に染まってしまうかもしれない人間(ロボット)の「業」を、極めて人間に近いロボットの存在で示しつつも、同時に「しかし、それでも」と希望も示されています。それは『鉄腕アトム』に限らない手塚治虫作品に通底するヒューマニズムであると思いますし、前述したように争いそのものの虚しさを描き、複雑な感情を呼び起こす「地上最大のロボット」からさらに、「偏った感情、特に憎しみは悲劇を生む、もしくは何も生まない」というストレートなメッセージが『PLUTO』の物語では貫かれるようにもなったのです。
コロナ禍の混乱を経て、ロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるガザ地区侵攻など、悲劇的な争いがいまだに起こる今では、このメッセージは私たちにさらに「突き刺さる」ものになっています。
さらに、ChatGPTや画像生成AIの興隆などにより、人工知能そのものへの思想もより身近になった今、危険性だけにとどまらない、人間および人工知能にまつわるポジティブな可能性を考えることもできるでしょう。だからこそ、『PLUTO』および「地上最大のロボット」は今こそ触れるべき「必要」な作品なのです。
この記事の筆者:ヒナタカ プロフィール
All About 映画ガイド。雑食系映画ライターとして「ねとらぼ」「CINEMAS+」「女子SPA!」など複数のメディアで執筆中。作品の魅力だけでなく、映画興行全体の傾向や宣伝手法の分析など、多角的な視点から映画について考察する。2022年「All About Red Ball Award」のNEWS部門を受賞。