大人が口を閉ざせば子どもは学ぶ機会を失う
カワカミ先生の授業や行動については、賛否両論あるかもしれません。教育委員会の指摘については、筆者もある程度は同意します。結果的にご遺族が喜んでくれたからよかったものの、そうはならない可能性もあったからです。
それでも、実際に生徒たちの感想文を受け取ったご遺族の反応を聞くと、全面否定する気にもなれません。生徒が亡くなったあと、学校や教育委員会の関係者たちが一様に口を閉ざすなか、突然とはいえ同校の教員がわざわざ遠くから来訪し、わが子の遺影に手を合わせてくれたのです。それはやはり、うれしかったでしょう。
また、自分が通う学校で起きた事件を生徒たちが学んだのも、貴重なことと感じます。いたましい事件だからこそせめて記憶され、教訓として生かされたいものです。亡くなった生徒やご遺族も、それを望んでいるのでは。
しかし、この件を筆者が知人に話したところ、「自殺について思春期の子どもに教えると、誘発する危険があるのでは?」と言われ、うーんと考え込んでしまいました。
確かに慎重に取り上げなければならないテーマですが、ここで考えるべきは、自ら死を選ぶにいたらしめた経緯など、外的な要因です。タブーにして扱いを自粛すれば、問題は改善されず、同じようなことが繰り返されかねません。「過労死」と同様です。
もっと子どもの死をオープンに語るべき
指導死を学校で教えることについて、どう考えればよいのか? 「指導死親の会」共同代表の大貫隆志さんに尋ねてみました。息子さんを指導死で亡くした経験がある大貫さんは、「もっと死をオープンに語るべきだ」と言います。「私はこれまで、小・中学校、高校、大学、少年院の皆さんに、指導死やいじめ自殺について話をしてきています。子どもたちはとても真剣に話を聞いてくれますし、家族や友人との関係のなかで自分が体験してきたことを踏まえ、感想も寄せてくれます。
一方で大人のほうは、子どもの死について知識をもち、それを子どもに届く言葉で話せる人がほとんどいません。『寝た子を起こすな』と言って口を閉ざしてしまうため、結果的に子どもたちは、死を正面から考える機会を奪われてしまいます。性教育と似たような構造です。もっと死をオープンに語るべきですし、議論を深めていったほうがいいと思います」
ご遺族とのやりとりに関する是非はともあれ、指導死を扱ったカワカミ先生の授業は、悪いものではなかったように筆者は感じます。学校が子どもたちに「自殺」や「死」をどのように教えるかを考えるきっかけの1つにできないものでしょうか。
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この記事の執筆者:大塚 玲子 プロフィール
ノンフィクションライター。主なテーマは「PTAなど保護者と学校の関係」と「いろんな形の家族」。著書は『さよなら、理不尽PTA!』『ルポ 定形外家族』『PTAをけっこうラクにたのしくする本』『オトナ婚です、わたしたち』ほか。ひとり親。定形外かぞく(家族のダイバーシティ)代表。