3:結局は、事実が歪められたフェイクニュースになっている
とはいえ、このメッセージ映像はあくまで「スーパーマンの生みの親が告げたこと」であり、「スーパーマン本人の言葉ではない」(実際にスーパーマン自身も破損した後半部分を知らなかった)という点を忘れてはなりません。それにもかかわらず、あたかもスーパーマン本人の本心であるかのように受け取られ、支持者までもが手のひらを返し、さらにはレックスやボラビア共和国の大統領が『すでにハーレムを作っている』などと憶測を語る――これは、明らかにフェイクニュースの範疇(はんちゅう)に入ると考えます。
また、親や子ども、きょうだいが重大なスキャンダルを起こしたり犯罪に関わったりした際、その家族までも過剰に責任を問われ、報道やバッシングを受けるというケースは、現実にも起こっていることです。
今作を含め、スーパーマンは過去作から一貫して「移民」のメタファーであり、その中で、誰かが発した1つの言葉が、あたかも“全体の総意”であるかのように受け止められるのは、本来極端な話です。現実でも「この人がこうした行動を取ったから」「こうした事例があるのは事実だ」といった、ごく一部の事象を“根拠”にして、排外主義を“当然”と主張する動きが、残念ながら日本にも存在します。
これらのことから、本作で描かれたのはやはりフェイクニュースの問題であると断言できますし、「確実に真実も含まれている」からこそ、現実のフェイクニュースの本質を一層鋭く突いていると思うのです。
ルーサーが報道によって、完全な「真実」で身を滅ぼすというのは因果応報ではありますが、彼は彼で憎しみや排外主義に囚われており、そのことにも気付いていない哀れな人物であるとも思えました。そんなルーサーが、スーパーマンの「同じ人間だ!」という言葉を聞いても「感動的なスピーチだな!」と皮肉交じりに返し、まったく同調せず、それでいて、彼が虐げていた犬のクリプトに敗れるという結末は納得のいくものでした。
また、スーパーマンに対して“スーパークソ”といった誹謗(ひぼう)中傷を送りつけていたのは多数の「猿」だったという、ぶっ飛んだ風刺も込められています。真面目な批判だけでなく、もはや「クソリプをするのはバカ!」とストレートに訴えている作品なのです。
4:「毒親」「理想の家族」の両方を描いてきたジェームズ・ガン監督らしさ
ジェームズ・ガン監督の作家性として、「毒親」と「(血のつながらない)理想の家族」の両面を描くことがあります。今回は、生みの親が地球侵略を命じるような毒親であったとしても、赤ん坊の頃から育ててくれた地球人の両親が「何を選び、何をするのか、それが本当の自分を決めるんだ」と教える姿が描かれています。その両面がはっきりと示されている作品だといえるでしょう。ガン監督の実父は、かつてアルコール中毒で家庭内暴力をしており、少年の頃のガン監督は自分の居場所がどこにもないという孤独感に苛まれていたそうです。後に、父は断酒に成功して人生を正しい方向へ変えたとも語っています。今回の『スーパーマン』の制作において、ガン監督は「父は私の親友でした」「父がいなければ、今こうしてこの映画を作ることもできなかったでしょう」と明かしています。
ガン監督の作品では、毒親の言葉や存在によって深く傷ついた人物が、新たな家族との交流を通じて回復していく姿がよく描かれます。これは、ガン監督自身が父親との関係に抱えていた“二面性”を反映しているのでしょう。最後にスーパーマンが地球人の両親と過ごした思い出の映像を見て癒やされる場面は、毒親である父がいたという事実を受け入れつつも、その父の善い部分を信じたいという気持ち、そしてその記憶を支えに自分自身を奮い立たせたいという、ガン監督自身の心情を反映しているのかもしれません。



