ヒナタカの雑食系映画論 第166回

『紅の豚』はなぜ主人公が「豚」なのか。宮崎駿自身が「こうかもしれない」と解釈するラストの意味

『紅の豚』を7つの項目に分けて解説しましょう。ラストや、ポルコが豚になった理由にはたくさんの「想像の余地」がありますし、宮崎駿監督の「願い」が込められていることも、重要だと思うのです。(画像出典:(C) 1992 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NN)

5:エンドロール中のイラストがみんな「豚」である理由

ポルコが豚になった理由はいずれも推測の域を出ず、前述した結末と同様に「見る人それぞれが想像すること」ではあるでしょう。

しかし、大きなヒントもあります。それは、映画が終わった後のエンドロール中での、飛行機が発明された後のイラストです。「なぜみんな豚として描かれているのか」という質問に対して、宮崎監督はこう答えています。

「空を飛ぶことが何をもたらしたと思いますか。飛ばなければ良かったとも言えるんです。どんなものでもキラキラしているんですよ。黎明期というのは。だけどそれが現実に資本や国家の論理の中に組み込まれたり、地上のいろんな利害関係の中に組み込まれて、いつの間にか汚れてくるんです」

『ジブリの教科書 紅の豚』P65

「今でもそうだと思いますけれど、飛んでいるときに人間たちが感じている感動は、嘘だと思わない。だけどそれで全部いいんだとも思わない。同時に、それは大したことじゃないんだという自覚を持ってくれなければ、かなわない。飛ぶことだけで全部完結していたら、絶対そういう人間は豚にならないです。自分はヒーローだと思い続けていますから、単なる乗務員で終わりですね。別に歴史をヒットラーのように自分で引きずり回した訳ではなくても、(任務で飛ぶということは)そこに何らかの形で加担しているんだから、ある種の苦々しさやそういうものから免れることはできない」

『ジブリの教科書 紅の豚』P66


「空を飛ぶことが何をもたらしたと思いますか」という問いかけに対する答えの1つは、「飛行機が戦争で人を殺す兵器になる」ことでしょう。飛行機を作る時は「純粋」でいられても、それがひどい結果を生むという「矛盾」は、零戦の設計者の姿を追った『風立ちぬ』でも描かれていたことでした。
紅の豚
(C) 1992 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NN
そして、「飛ぶことだけで全部完結していたら、絶対そういう人間は豚にならないです」といった宮崎監督の言葉からは、飛行機に限らず、どんな物事でも――たとえ最初は楽しくても――やがて「しがらみ」「後めたさ」「苦々しさ」のようなものが生まれてしまう、という現実がにじみ出ています。それは残酷でありながらも、この世界の本質を突いた真実なのではないでしょうか。

豚は、そうした矛盾、あるいは滑稽さ、あるいは悲哀の象徴であり、それらをひっくるめて「生きている」ことを示しているのかもしれません。

6:宮崎監督自身の「中年になった今の自分に向けての手紙」

宮崎監督は『紅の豚』を中年になった今の自分に向けての手紙」とも考えていたようです。

「自分が今まで作ってきた『ナウシカ』や『ラピュタ』や『トトロ』などは、自分への手紙なんです。自分のさえなかった子ども時代や、さえなかった高校時代や、さえなかった幼年時代に対する、ああいうふうにしたかったけれどもできなかった自分自身の全世代に向かっての手紙。(中略)全世代へ手紙を書き終わったときに、これからどうやっていくんだと迷っている中年時代の自分にいくしかないんじゃないのと、『紅の豚』で現在形の手紙を書いてしまった」

『ジブリの教科書 紅の豚』P70


宮崎監督は「ああいうふうにしたかったけれどもできなかった自分自身」の姿を、劇中のポルコ、そのほかの「自分をしっかりと確立したキャラクター」たちに投影していたとも言えるでしょう。
紅の豚
(C) 1992 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NN
思えば、宮崎監督はいつも作品の中で「こうだったらいい」という「理想」を描いているとも解釈できますが、同時に前述したような「後めたさ」や「矛盾」からも逃げてはいません。だからこそ、宮崎監督の作品は、監督自身だけでなく、多くの人に届く「手紙」になっているのでしょう。

7:「それでもみんなに元気に生きてほしい」という願い

劇中では「近頃は札束が紙クズ並の値打ちしかない」という言葉があったり、立ち寄った街でガソリンが3倍の値段になっていたりと、「世界恐慌の波が押し寄せ、人々の暮らしが厳しくなっている」と思わせるような描写も見られます。

舞台である1920年代以降のヨーロッパは現実でも大変な時代ですし、やがて戦争も起こります。このように、その後のポルコやフィオやジーナが「ずっと元気」ではいられないのではないか、と少し不安になる要素もあるのです。
紅の豚
(C) 1992 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NN
それでも、フィオの最後のモノローグは「あれから何度も大きな戦争や動乱があったけれどその(ジーナとの)友情は今も続いている」といった内容で、「ああ、やっぱりみんな元気だったんだな」とも思えるものになっています。

そして、「豚はヨーロッパの現代史を背負っている」という前置きをしてから、宮崎監督はこう考えています。

「僕の知っている範囲のヨーロッパ史の知識からいっても、その後大変な激動の時代が続くんです。大バカな第二次世界大戦があって、そこでフィオはどうしたんだろう。イタリアの飛行機の町工場が、どういうふうにイタリアの戦争に巻き込まれていったのか。ああいうふうに生きているジーナみたいな女が、ホテル・アドリアーノを抱えたままユーゴスラビアと戦争になったときに、彼女はどこに生きたんだろう。そういうことが気になるんです」
 
『ジブリの教科書 紅の豚』P61


この言葉に続いて、宮崎監督は、「この映画は、それでもみんなに元気に生きてほしいと思いながら作った」「俺は俺、俺の魂の責任は俺が持つんだ。豚はそういう男なんです。それが、これから生きていく上で必要だなと、自分も切実に思ったから」とも語っています。
紅の豚
(C) 1992 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli, NN
戦争の時代があり、その最中で「(後めたさや苦々しさがあったとしても)自己を確立した人たち」に、やっぱり「元気でいてほしい」と願いたくなる……。『紅の豚』で描かれたのは、そんなある種の都合のいい理想論なのかもしれません。しかし、それは同時に「願い」とも言えるのではないでしょうか。そして、ポルコやフィオやジーナのように、自分も生きてみたいと思える……そんな映画が、生まれて良かったと思います。

※宮崎駿監督の「崎」は「たつさき」が正式表記

この記事の筆者:ヒナタカ プロフィール
All About 映画ガイド。雑食系映画ライターとして「ねとらぼ」「マグミクス」「NiEW(ニュー)」など複数のメディアで執筆中。作品の解説や考察、特定のジャンルのまとめ記事を担当。2022年「All About Red Ball Award」のNEWS部門を受賞。
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