3:キャラクターそれぞれの立場と思惑が交錯する
本作はキャラクターの特性や奥深さも魅力的です。それぞれを紹介しましょう。前作の主人公マキシマスが皇帝に忠誠を誓うローマ軍のリーダーだった一方、今作のポール・メスカル演じる「ルシアス」は侵略してくるローマ軍から故郷を守る蛮族でローマとそれに関わる全てを憎んでいる、という正反対の立場です(ただし両者とも奴隷となり強制的に殺し合いをさせられます)。このことを踏まえると、彼の言動がより興味深く見られるでしょう。ラヴィという医者のキャラクターとの会話では、それまでやや内面が見えにくかった彼の「人間らしさ」も垣間見えました。 もう1人の主人公のような存在感を放つ「マクリヌス」は、商人や剣闘士のスポンサーとして地位を築き、莫大な富と影響力を得る権力者。彼を演じたデンゼル・ワシントンは「彼は誰のことも気にしていない。利用するだけだ」という冷徹さがありつつも、「権力は中毒性のある麻薬だ。一度手にすると、それなしでは生きられなくなる」と権力に酔いしれている状態であることを分析しています。 「マルクス・アカシウス将軍」は、ルシアスから見れば冷酷な征服者のはずですが、劇中の多くでは道徳心と思いやりがある高潔な男にも見えますし、ペドロ・パスカルはとある決断をするまでの葛藤を見事に表現しています。彼の妻である「ルッシラ」への愛情も確かなものであり、前作のキャラクターの多くが死亡している中で、ルッシラ役を続投したコニー・ニールセンと共通する(あるいは別の)苦悩の演技も見どころです。 さらに、ジョセフ・クインと フレッド・ヘッキンジャーが演じる「ゲタ」と「カラカラ」の兄弟皇帝は、共に残忍な言動をしているようですが、どこか“薄っぺらい悪役”という印象を観客に与えます。リドリー・スコット監督は前作のコモドゥス皇帝の卑劣な遺産を超えるべく、キャラクターの悪意を意図的に増幅させていたそう。とてつもなく憎らしくて狂気的ですが、兄弟、そして“ライバル”としての関係には、ごくまれに「それだけではない」感情も見えるのです。 なお、前作の主人公のマキシマスおよび、今作の主人公ルシアスは架空のキャラクター(モデルになった人物もいる)ですが、マルクス・アカシウス将軍、マクリヌス、ルッシラ、ゲタとカラカラの兄弟皇帝は実在の人物です。
自由な解釈でドラマを紡ぎつつ、ベースでは綿密なリサーチに基づいた歴史上のローマを参考にしていることも、前作から引き継がれた強固なドラマにつながっていたと思います。
4:殺し合いに熱狂する観客と、それぞれの立場から思い知らされること
さらに前作から引き継がれた要素として、「見せものとしての闘いを楽しむコロセウムの観衆の姿は、映画を見に来ている自分たちの姿と重なる」こともあります。 リドリー・スコット監督は「個人の力では抗えない社会や世界にある仕組み」をシニカルに描くことが多い作家。前作に続き『グラディエーター』という作品では、「剣闘士が大衆から英雄と称えられていたとしても、それは殺し合いに強制的に参加させられる、非人道な権力の犠牲者である」という、当たり前かつ欺瞞(ぎまん)を許さない姿勢が一貫されています。それを映画という「娯楽」として描くことで、その「加害性」を認識させるという効果があるのです。そして、政治より個人が搾取され続けたり、人心を掌握して(その気になって)より自身の権力を強固にしたり、あるいは大衆のための行動を起こそうとするも誰かに踏みにじられてしまう……といった図式は、2024年現在の世界にあるさまざまな事象にも当てまっています。 それをもって、権力や決闘(という名目の殺し合い)にある浅ましさを示しつつも、それ以外に大切な何かがほかにあるのではないか……と、観客に自主的に考えさせる構造も備えているのです。
※以下からは前作『グラディエーター』のラストのセリフと、(公式Webサイトには掲載されている)『グラディエーターII 英雄を呼ぶ声』の主人公の隠された設定に触れています。ご注意ください。