そして卒業後の1994年には、Jリーグのジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)に鳴り物入りで入団し、幼い頃に父と交わした「プロサッカー選手になる」という約束を見事に果たすのだ。
プロ1年目はデビュー戦から4試合連続ゴールを決めるなど、センセーショナルなパフォーマンス。ルーキーイヤーの通算12ゴールは、高卒新人としてはいまだ破られていない金字塔である。その後のクラブレベル、そして日本代表における活躍については、ここであらためて語る必要もないだろう。
ならば、華々しかった彼のプロキャリアに、両親の教育はどの程度の影響を与えたのだろうか。スパルタだった父も、さすがにプロ入り後の活躍に目を細めていたかと思いきや──。
後編では、現在2人の子どもの父である城自身の子育て論にも触れていく。
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中1でほったらかしはないなと思うけど……
厳しかった城の父は、今から12年前の2012年に他界した。まだ60代の若さだった。幼い頃はもちろん、プロとしてどんなに成功を収めても、父は亡くなるまで1度も息子を褒めたことがなかったという。「プロになる夢をかなえた時も、『上には上がいる。どうせ1年か2年でクビになるから覚悟しておけよ』って言われましたからね。唯一、引退試合の時だけです。『お疲れさん、頑張ったな』って声を掛けられたのは」
長男には特に厳しく、という昔ながらの考えもあったのだろう。実際、6つ下の次男と、同じくサッカー選手になった8つ下の三男(和憲/かつてJFLのホンダロックSCに在籍)には、城が嫉妬するほど甘かったという。
それでも、この両親がいなければ、プロとしての成功もなかったと城は言う。
「何事もまずは自分で考えなさい、自分で経験しなければ何もつかめないという教育方針が、僕には合っていたんでしょうね。確かに中1でほったらかしはないなと思うし(笑)、あの頃は精神的にかなりきつかったですが、そうした辛い経験をした時に、どうすれば状況を変えられるか、自分で考えられる人間になれた。子どもではなく、1人の人間として見てくれたからこそ、早い段階でいろんな経験ができたし、それはすごく感謝しています」
栄養士の資格も持っていた母の、陰ながらのサポートにも感謝している。
「野球をやっている頃から、練習後におにぎりやバナナ、果汁100パーセントのオレンジジュースなどの補食をとるようにしてくれていましたからね。父親のいないところでは、いつも僕の活躍を喜んでくれていたし、『お父さんだって本当はうれしいのよ』ってフォローも忘れなかった。自分も親になって分かりますけど、母親は特に、中学生の子どもに1人暮らしをさせるなんて、相当に心配だったと思いますよ」
子どもたちは、やりたいことを自由にやればいい
では、そうして両親から受けてきた教育を、自身の子育てにはどのような形で生かしているのだろうか。スパルタとも言える、ある種の突き放すような教育がなければ、「考える力」は育まれないのだろうか。城は、即座に否定する。「僕が育ったのは、言葉よりも先にモノが飛んでくるような時代でしたからね。自分が経験してきて、それは違うなって思ったし、何より今の時代にそぐわない。もちろん、人に迷惑をかけたりしたら、僕も子どもたちを叱りますけど、特に家庭内で決まりごともつくらないし、彼らがやりたいことを自由にやればいいという考え方ですね」
20歳になった長女は、徒競走でも周りの子を先に行かせるようなおっとりとした性格だという。ただ、幼い頃から人前に出ることが好きで、度胸は満点。ミュージカルやタップダンスをやっていた延長線上で、現在はタレントとしても活動するようになった。
「4年生になって、いきなりサッカーをやりたいって言い出して。まあ、僕としてはやりたければやれば? というスタンスです。まだまだ、全然下手くそですしね(笑)」
城の評価は厳しいが、それでも才能は父親譲りなのだろう。城がスポーツディレクターを務めるインテルアカデミー・ジャパン(イタリアの名門インテルが運営するサッカースクールの日本支部)のスクールでボールを蹴り始めると、早くも5年生の時にFC東京のスカウトの目にとまる。そのプレースタイルは祖父譲りなのか、城いわく「破天荒」だ。
「バーンってボールを蹴って、ガーッて走る(笑)。足が速いのと、あとは左利きという点をFC東京さんに評価していただいたんだと思います」
ただこの先、自分と同じようにプロになってほしいのかと問えば、それもあっさりと否定する。
「ならなくてもいいし、なって欲しいとも思っていません。娘についてもそうですが、将来こんな大人になってくれたらいいなという願望は一切ないんですよね。ただ、彼ら自身が『こうなりたい』という目標や夢は絶対に持って欲しい。そこに向かってチャレンジして、仮につかめなければ、また違う目標を見つければいい。親としては、例えば金銭的な部分や食事面などで、その手助けをするだけです」