アスリートの育て方 第11回

3万円を手渡し「頑張って来いよ」。破天荒すぎる父が中学生だった元日本代表・城彰二に課した極貧サバイバル生活

トップアスリートが「どんな親のもとで育ったのか」、そして「わが子をどんな教育方針のもとで育てているのか」について聞く連載【アスリートの育て方】。元サッカー日本代表の城彰二はどのような両親のもとで、どう育ったのか、話を聞いた。

23歳以下のサッカー日本代表が、パリ・オリンピックの最終予選を兼ねたアジアカップで優勝を飾り、8大会連続のオリンピック出場を決めた。
 
今ではすっかり「出るのが当たり前」になったオリンピックだが、ほんの30年ほど前まで、それは日本サッカー界にとってはるか遠い夢の舞台だった。

1968年のメキシコ大会で銅メダル獲得の快挙を成し遂げてから四半世紀以上もの間、1度も予選を突破できなかった日本が、その重い歴史の扉をこじ開けたのが、1996年のアトランタ・オリンピック。28年ぶりの出場を決めたチームは、本大会でも強豪ブラジルを破る“マイアミの奇跡”を起こし、大きな話題を呼んだ。
 
前園真聖、中田英寿、川口能活らとともに、当時のチームで中核を担ったのが、“エースのJO”こと城彰二だった。
 
その後、日本が初出場を果たした1998年フランス・ワールドカップの大舞台にも立った城は、クラブレベルでもジェフユナイテッド市原(現ジェフユナイテッド市原・千葉)、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)、さらにはスペインのレアル・バリャドリードなどで中心選手として活躍。2006年に現役を引退するまで、得意のヘディングを武器にゴールを量産し続けた。
 
では、この日本サッカー史に名を刻む偉大なストライカーは、どのような両親のもと、いかなる環境で育ったのだろうか。本人が語ってくれたその幼少期は、ドラマや小説の題材にもなりそうなほど苛烈だった。

職人気質の父のスパルタ教育

城彰二は1975年6月17日、北海道室蘭市で生まれた。30代にしてこの地で土木建築会社を立ち上げた職人気質の父は、初めて授かった長男を甘やかすことなく、とにかく厳しく育てた。
 
「もともとは鹿児島の人なので、まあ男が強いというか(笑)。時代も時代でしたけど、言葉よりも先に手が出るような父親でしたね。食事中にうっかり鼻歌でも歌おうものなら、すぐに灰皿が飛んできましたから」
 
3人兄弟で次男とは6つ、三男とは8つも歳が離れている。ならば幼い頃は1人っ子のように猫かわいがりされてもおかしくなさそうだが、父には子育てに関してモットーがあったようだ。
 
「子どもを子どもとして見ない。1人の人間として育てるという考え方があったみたいで、だから毎日叱られてばかりでした。例えば、『タバコを持ってこい』と言われて、タバコだけ持って行ったらバチーンと殴られる(苦笑)。『これでどうやって吸うんだ?』と。それでライターを持って行くと、今度は『灰皿がないだろ』ってまた殴られる。要するに人に対して気遣いができないとダメで、もっといろんなことを考えながら行動しろとはよく言われましたね」
 
スパルタの父のもとでも城が明るくのびのびと育ったのは、北海道出身らしく大らかな性格だった母の存在があったからだろう。母親は自身が経営する旅館を女将として切り盛りし、一家もその一角で暮らしていたのだが、人の出入りが激しい環境では「人見知りになっている暇もなかった」という。

「サッカーでご飯を食べられるようになる」という父との約束

そんな城が最初に出会ったスポーツは、サッカーではなく野球だった。
 
「僕が生まれる前、父親はどうしても女の子が欲しかったみたいなんです。それでまだ小さい頃は髪にリボンなんか付けられていたんですけど、そのうちに将来はプロ野球選手にしたいと思うようになったらしくて(笑)。物心ついた頃には野球をやっていましたし、小学校の運動会に原(辰徳)選手の8番のユニフォームを着て出たくらい大好きでしたね」
 
才能もあった。地域の少年団で小学3年生までプレーし、4年生からはリトルリーグのチームに誘われ、そこで本格的に野球に取り組んだ。本人も、そして父親もこのまま野球の道を進むと思っていたはずだが、しかし人生は分からない。転機は小学4年生の昼休み、たまたま遊びでやっていたサッカーがきっかけだった。
 
「そこでサッカー部の先生に声を掛けられたんです。たぶん背が大きかったので目を引いたんでしょうね。もちろん野球をやっているからと断ったんですが、3日連続で地元の少年団(室蘭中島旭ヶ丘サッカー少年団)に誘われて。最終的には9番のユニフォームを持ってきて、『これをお前にやるから一緒にやらないか』と。それがカッコよかったので、『やります!』って即答しちゃいました(笑)」
 
問題は、すっかりプロ野球選手にさせる気になっていた父親をどう説得するか。言い出せなかった城は、1カ月ほど必死で野球と掛け持ちしながらごまかし続けたという。
 
「さすがに限界がありますよね。いい加減にバレると思って、正直に『サッカーをやりたい』と言ったら、案の定殴られました(笑)。だけど反抗心もあったのかな。それでもサッカーをやると言い張ったら、父親もあきれて『勝手にすればいい、その代わり俺は一切応援しないからな』って」
 
そう言われて、城も意地になった。「サッカーでご飯を食べられるようになる」と約束し、自分が活躍することで、いつか父を振り向かせてやろうと心に誓うのだ。
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人生を変えた奇跡のゴール
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