人生を変えた決勝ゴール
だが、何といってもサッカーはずぶの素人だ。学生時代に陸上選手だった母の血を引いて運動神経抜群だった(小学校のマラソン大会はいつも1位)とはいえ、最初は球拾いばかり。のちに知ることになるのだが、この室蘭中島旭ヶ丘サッカー少年団は、横浜マリノスなどでプレーした野田知(さとる)さんを輩出するなど、地元では強豪として有名なクラブだった。「せっかく9番をもらったのに、試合には全然出られない(笑)。ただ、今振り返れば良かったと思うんですが、当時の監督は『基礎がなければ何もできない』という方で、球拾いを卒業した後も、延々2時間パス交換とか、基礎練習ばかりやらされましたね」
ドイツにいた知人からサッカーのビデオを取り寄せたり、サッカー雑誌を読み込んで蹴り方を勉強したりと、そんな地道な努力が幸運を呼び込むのは、6年生の最後の大会だった。地区大会では全く出番のなかった城だが、全道大会に勝ち上がったチームのエースがけが、二番手の選手も風邪を引いて、お鉢が回ってくる。そして、その決勝戦でなんと決勝ゴールを奪ってしまうのだ。
「奇跡のゴールですよ(笑)。相手の選手がバーンって当たってきて、怖いから思いっきり蹴ったら、それが25メートルくらい飛んで入っちゃった」
この公式戦初ゴールが、城の向上心に火をつけた。小学校を卒業後は1度地元の中学校に進学したものの、「もっと上のレベルでやりたい」と考えるようになる。当初はサッカー王国・静岡の学校を目指したが、全道大会優勝で多少の歩み寄りを見せていた父に相談した結果、親戚のいる愛知県の中学へ転校することが決まる。
中学時代の苛烈なサバイバル生活
ただ、ここからが破天荒な父らしい。寮のあるような私立校に転校させるわけでも、一家そろって愛知に引っ越すわけでもなく、中学1年生の城をたった1人で名古屋市内に借りたマンションに住まわせ、公立中学(名古屋市立日比野中学)に通わせたのだ。「エアチケットと3万円が入った封筒、それからマンションの住所が書かれたメモだけ渡されて、頑張って来いよって(苦笑)。空港から熱田区のマンションまで普通は1時間半くらいで着くんですが、今みたいにスマートフォンもないので、結局6時間くらいかかりましたね」
「義務教育の中学までは、公立に通うなら親との同居が条件なので、父親からは『絶対に1人暮らしだとバレるなよ』と言われていました。だからご飯が食べられなくても誰にも相談できないし、次の仕送りが来るまで3、4日水だけ飲んで耐えていたこともありましたね。仕送りと一緒に母親からの手紙も入っていましたが、返事を出すくらいならそのお金でパンを買ったほうがよかった。あとで聞いたら、父親から『手助けはするな、1人でやらせろ』って言われていたらしいです」
ソースやマヨネーズをなめて数日を過ごしたこともあった。空腹に耐えかねてスーパーの廃棄食品用のごみ箱に手を伸ばしたこともあった。そんな生活から脱するため、考えた末に城少年は近所の販売店に頼み込み、新聞配達のアルバイトを始める。毎朝4時に起きて、徒歩で1日500部を配り歩いた。どれも、育ち盛りの中学生の話である。
「サッカーがどうのよりも、まずは今日1日をどう生きるか、でしたね。ただ、どんなに苦しくても道を逸れるようなまねだけはしなかった。やっぱりサッカーが好きだし、せっかくのチャンスを潰してしまうようなトラブルだけは絶対に起こしちゃいけないって、子どもながらに考えていましたね」
転校先の中学はレベルが高く、最初はついていくのがやっとだった。しかし、城の身体能力の高さを見抜いた監督から、「お前はヘディングを磨け」と言われ、来る日も来る日もおでこの皮がむけるほどヘディングの練習ばかりしているうちに、それがかけがえのない武器になる。入部から2、3カ月が過ぎた頃には、愛知県のトレセン(各地域から選抜された選手たちにより良いトレーニング環境を与える強化育成の場)から声が掛かるようになった。