その放送は本編ノーカットのうえ、エンディングは新海誠監督が企画書に描き込んだイラストを使用した特別仕様。本編での名シーンの数々に加えて、こちらもSNSでの盛り上がりが期待できます。
そんな『すずめの戸締まり』は、『君の名は。』と『天気の子』の頃(それ以前)の新海作品と連なる特徴が根底にありつつも、大きな変化もあります。それは新海監督の作家としての成熟であるとともに、心境の移り変わりも理由にあると思うのです。そのことを、5つの項目に分けて記していきましょう。
※以下、『すずめの戸締まり』および、『君の名は。』と『天気の子』の結末も含むネタバレに触れています。ご注意ください。
1:劇中歌がなくなった理由
『君の名は。』と『天気の子』では、高揚感にあふれるメロディアスな劇中歌にあわせた、テンポ良く展開するミュージックビデオのようなシーンも大好評を博していました。しかし、今回はエンディングで流れる『カナタハルカ』と、芹澤がドライブ中にかけた『ルージュの伝言』などの既存曲以外には、劇中歌はありません。
実は、2022年12月号の雑誌『CUT』(ロッキング・オン)のインタビューでは、新海監督は「RADWIMPSの劇中歌を、今回は最初から使わずにいきましょう」と野田洋次郎に話していたと、はっきりとつづられています。
その理由は「単純に『君の名は。』『天気の子』で、ある種やり切れた気持ちがあった」「あれ以上のものを、また少し味を変えて出しても、同じような衝撃を観客に与えるのは難しいんじゃないか」「物語の最後に重心がかかるような、感情の爆発を最後に集中できるような構造にしていきたい気持ちがあった」といったものだったのだとか。
つまりは、二番煎じの演出にはしないというだけでなく、劇中歌で盛り上がりや感情のピークが途中に来てしまうことを、今回の『すずめの戸締まり』では避けたかった、ということなのでしょう。
その甲斐あって、ラストに鈴芽が「行ってきます」と言ってから、やっとかかる『カナタハルカ』の歌と歌詞は、これまでの新海作品とはまた違う深い余韻を与えてくれたと思います。
ちなみに、『Tamaki』という劇中で使用されなかった楽曲もあります。
こちらはタイトル通り、鈴芽の叔母である環の気持ちを表現した曲で、野田洋次郎いわく「主題歌のために作ったというより、映画から着想を得て書いた曲」とのこと。
環役の深津絵里は、アフレコ前にこの曲のデモを聴きながら役作りしていたこともあったのだとか。劇中で鈴芽に言われている通りとても重い、だけど切実な気持ちが歌われているので、ぜひ聴いてみてほしいです。
2:モノローグがほぼなくなった理由
新海監督の作家性の1つに「モノローグの多用」がありますが、今回の『すずめの戸締まり』では、母の椿芽が椅子を作った時の夢を見た直後の、鈴芽の「(椅子を)大事にしていたの、いつまでだっけ」以外では、モノローグはありません。実は『CUT』の同インタビューで新海監督は、「鈴芽が今までの新海作品に比べて“自分語り”が少なくて、それが新境地ではないか」と指摘されると、「初期の脚本ができた時に、スタッフから『新海さんは今回、初めて自分じゃない人を書いたんですね』って言われたのがうれしかったんです」と返しています。
なるほど、これまでの新海作品のキャラクターがモノローグで「自問自答」するのは、新海監督が自身を投影し、考えを「代弁」させていたから、ともいえます。
そして、鈴芽はこれまでとは異なり、新海監督がより自分の頭で考えて想像(創造)したキャラクターとなり、自身の代弁者ではないからこそ、モノローグがほぼなくなったのではないでしょうか。
加えて、新海監督は「鈴芽の抱える大きな喪失感は、彼女の人物像を作っていく上で、自分が彼女だったらということを徹底的にイメージしていきました」とも語っています。
安易なキャラクター造形をしないことはもちろん、(項目4で後述するように)東日本大震災の当事者ではない新海監督が、それでも当事者の喪失感をくみ取ろうと奮闘したこと、最終的に鈴芽が「自分自身」に「大丈夫」と言ってあげられることともリンクしているのです。