最近は、バラエティ番組でもその姿を目にすることが多くなった。
2019年シーズンを最後に、レノファ山口で現役を引退した坪井慶介は、現在サッカー解説者やサッカー教室の指導者として活動する一方で、タレントとしての顔も持っている。「400メートル走サバイバル」「大食いチャレンジ」といった過酷なテレビ番組の企画にも、全力で取り組む姿が印象的だ。
現役時代は俊足のCB(センターバック)として鳴らした。2002年に入団した浦和レッズの黄金時代を支え、日本代表として2006年ドイツ・ワールドカップの舞台にも立った坪井だが、しかし中学時代はもちろん、三重の名門・四日市中央工業に進学してからも、Jリーグのスカウトの目にはとまらない無名の存在だった。
それでも、「プロになりたい」という一心でいくつもの挫折を乗り越え、夢を現実にする。はたして、そのタフなメンタルはいかにして培われたのか。
教育熱心な両親のもと、厳しいしつけを受けて育ったわけではない。幼少期の話を聞けば、こちらが拍子抜けするほどの放任主義。言うならば「愛のあるほったらかし」のなかで、坪井は自ら考え、行動し、トップアスリートへと上り詰めたのだ。
「愛のあるほったらかし」のなかで育った野生児
「たぶん、僕を育てた覚えがあんまりないと思いますよ」両親について話を切り出すと、坪井は少し申し訳なさそうに言って笑った。
「もちろん人に迷惑をかけるなとか、あいさつはきちんとしなさいとか、最低限のことは言われましたけど、年子の兄に手がかかった分、次男の僕は本当にほったらかしでしたね(笑)。兄がいろいろと言われる姿を見て、『ああ、これはやっちゃいけないんだな』って勝手に学んでいった感じです」
1979年9月16日、坪井は設計士の父と専業主婦の母のもと、東京都多摩市で生まれた。当時の多摩市は東京郊外のベッドタウンとして開発が進んでいた頃だったが、まだまだ自然が豊かで、子どもの遊び場所には事欠かなかった。
「公園があれば走り回るし、木があれば登るし、まさに野生児でしたね(笑)。段ボールを敷いて山を滑り降りて、茂みに突っ込んだり。毎日そんなことばかりしていたから、近所でも結構目立つ子だったと思います」
そんな坪井少年を見て、サッカーをやるように勧めたのも、近所に住むサッカー少年団(鶴牧SC)のコーチだった。しかし、本人にサッカーをやる気はさらさらなかったという。
「当時は野球に夢中でしたからね。西武球場が近かったので、ライオンズの大ファンでした。秋山幸二、清原和博、デストラーデがいた黄金時代。サッカーなんて、ワールドカップも見たことがなかったし、まるで興味がなかったんです」
Jリーガーでよくあるのが、「兄弟の影響でサッカーを始めた」というパターンだが、坪井にはそれも当てはまらない。剣道を習っていた兄は「自分とは真逆の性格」で、積極的に外に出て行くタイプではなかった。
両親はたぶん、試合を観に来たこともなかったと思う
ならば、両親は? 坪井がサッカーをやることに賛成だったのだろうか。「やりなさいとも言わないし、僕が嫌々でもなんとなく練習に行くから、じゃあ続ければ? って感じでしたね(笑)。たぶん、試合を観に来たこともなかったと思います」
岐阜県の同じ町出身の両親はともに学生時代、陸上競技の選手だった。父は800メートル、母は短距離が専門で、母親は県内でもトップ3に入るほどの実力者だったという。「将来、自分の子どもをアスリートにしたいという思いも多少はあったのでは?」と水を向けてみるが、坪井は即座に「それは一切ないです」と否定する。
こうして、嫌々ながらも小学3年生から始めたサッカー。最初の1年ほどは「おなかが痛いと言って、結構練習もサボっていた」というが、両親の血を継いで運動神経は良かった。当時から背が高く、足も速かった坪井は「スイーパー」としてすぐに頭角を現し、6年生になる頃には多摩市の選抜チームに選ばれるまでになっていた。