アスリートの育て方 第7回

「たぶん両親は試合を観に来たことがない」ほったらかしで育った坪井慶介が、プロサッカー選手になれたわけ【独占インタビュー】

アスリートが「どう育てられたのか」、そして「どう子どもを育てているのか」について聞く連載【アスリートの育て方】。元サッカー日本代表の坪井慶介は「愛のあるほったらかし」のなかで育ったという。どのような両親のもとで、どう育ったのか、話を聞いた。

「やりたいならどうぞ」の教育方針が僕には合っていた

 一度好きになると、そこからのめり込むのは早かった。「もっと強いチームでやりたい」との思いが芽生え、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)のジュニアユースのセレクションに挑戦する。残念ながら不合格となったが、ならば次に強いチームに行こうと、隣町にある町田市の東京小山FCに入団するのだ。
 
この過程でも、両親は坪井のやることに一切口を挟まなかった。小山FCも自分で雑誌の募集広告を見つけて申し込んだ。当然、親の送り迎えはない。バスと電車を乗り継いで片道1時間以上かけて練習に通うようになる。
 
「両親は、行きたいならどうぞって(笑)。今の子どもたちの親御さんからすると、ちょっと考えられないかもしれませんね。でも、その良し悪しって分からない。結局、親の教育方針がその子に合っているかどうかだと思いますし、僕にはそれが合っていた」
 
だが、小山FCで過ごした時間は、中学1年のわずか1年間で終わる。両親の実家のある岐阜に、家族で引っ越すことになったからだ。
 
「せっかく強いクラブに入れたんですからね。相当駄々をこねましたよ。でも、中学生が1人で東京に残れるわけがありませんし」

弱小チームで学んだ「環境のせいにしない」こと

引っ越し先は、岐阜県中津川市付知(つけち)町。そこは想像以上の田舎町だったという。
 
「凄かったですね(笑)。よく盆地って表現されるんですが、そんなもんじゃない。山と山に挟まれた谷の底にあるような町でした」
 
転校先の中津川市立付知中にはたまたまサッカー部があったが──両隣町の中学にはなかった──、メンバーも満足にそろわず、冬はグラウンドが凍るような状態で、サッカーをやるには難しい環境だった。チームは県大会どころか地域大会にも進めない弱小。本来はDF(ディフェンダー)の坪井が中盤を仕切って攻守に奮闘したが、限界はあった。
 
それでも、この引っ越しが坪井の人生の大きなターニングポイントとなる。
 
「岐阜に引っ越して、それまで以上に自分から発信することや、コミュニケーションをとることの大切さを学びました。体育祭の実行委員をやったり、生徒会の選挙の応援演説を全校生徒の前でしたり、バスケのスリー・オン・スリーの大会に出たり。それこそ自然が豊かだったので、みんなと山遊びや川遊びもめちゃくちゃやりましたね」
 
「環境のせいにしていたら、何も変わらない。とにかく自分から発信して、周りを変えていくしかないんです。確かにサッカーをする環境は整っていませんでしたが、岐阜に来て何よりも人間性が磨かれたような気がします。たった2年しかいなかったのに、今でも僕にとって付知の町は特別だし、大好きなんです」
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中学2年でプロを目指した坪井の大胆な決断
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