ラー博の岩岡館長が100回以上通って誘致
ラー博と「すみれ」との出会いはラー博がオープンする3年前の1991年に遡ります。ラー博の創業者である岩岡洋志館長は、調査のため、全国のラーメンを食べ歩いていました。その中で、岩岡館長は「すみれ※」のラーメンに相当な衝撃を受けたそうです。※当時は純連(すみれ)
すぐに「ラー博にご出店いただけませんか?」と伸宜さんに交渉しましたが、門前払いでした。
しかし、「顔を覚えてもらおう」と、岩岡館長はめげずに通い続けたのです。名前を覚えてもらえるようになると、待ち伏せし、競馬好きな伸宜さんと一緒に競馬に行くように。この熱意が実を結び、食事に行くほどの間柄まで進みました。
新横浜から札幌に通った回数は100回以上。そんな関係が2年ほど続いた後、ついに伸宜さんから「横浜で勝負したい。出店する方向で考える」とのうれしい連絡が入ったのでした。
屋号がひらがなの「すみれ」になった理由
1度は出店の方向で話がまとまりかけましたが、伸宜さんの家族の反対でラー博の開業7カ月前に白紙に戻ってしまいます。岩岡館長は「純連(すみれ)はラー博の目玉になるお店。店を作り、出店できるタイミングまで待つ」という決断を下します。
建設中のラー博を訪れた伸宜さんは、「家族の反対を押し切って出店する。だから申し訳ないが"純連"という屋号は使えない。平仮名の"すみれ"でもいいか?」と。3年の歳月を経て、札幌「すみれ」の出店が決まった瞬間でした。
伸宜さんは「お客さんが来るかどうかという不安よりも、この味が首都圏で通用するのか試してみたい、そして兄のお店(じゅんれん)を超えたいという思いの方が強かったです。私にとってはラー博の出店が人生の大きな分岐点でした」と当時を振り返ります。
「すみれ」は2004年でラー博を卒業しますが、2012年に2度目の出店を果たします(2018年に2回目の卒業)。常設店として再出店したのは、後にも先にも「すみれ」だけです。