「中途半端はするな」という両親の教え
当時、近所のソフトボールチームに入っていた史朗が手を抜いたプレーをしたときなどは、コーチをしていた義明に追いかけ回されたこともあったという。ちなみに、なかでもヤンチャだった次男と父親との壮絶なバトルは、とてもここでは書ききれない。
それでも末っ子ということもあって、史朗は兄弟の中では1番両親にかわいがられた。家族で旅行に出かけるような余裕はなかったが、近所のスーパーで父と一緒に映画を見たり、畑仕事を手伝ったり(半分は遊びだったが)することも少なくなかった。
ラグビーを始めたのは、9歳のとき。サッカーをやっていた3つ上の兄と1つ上の兄とは、違うスポーツをやりたかったというのが、そのきっかけだ。
「自分の好きなことをやれと、親には言われました。ただ、中途半端はするなとも。中学生の頃、ヤンキーに憧れた時期もありましたが、周りが練習や試合をサボっても、僕だけは1人でもちゃんと行っていましたね。なにしろオトンが怖かったので(笑)。でも、そうやって真面目に取り組んできたおかげで、今もこうしてラグビーとつながっていられるんだと思います」
毎朝3時に起きてお弁当作り……母の献身
中学を卒業後は、農業専門学科がある京都府立桂高校に進学する予定だった。三男ではあったが、両親を尊敬していた史朗は農家を継ぐつもりでいたのだ。それでも、中学のラグビー部の先生に勧められ、ラグビーの強豪校・伏見工業高校に進学する。
「ちょうどラグビーが好きになってきた頃だったので、あと3年間だけ続けたいと言ったら、快く許してくれました。本当は(同じくラグビーの強豪校である)京都成章高校に行きたかったんですが、私立はお金がかかるので、さすがにそれは無理でしたけど」
伏見工時代の史朗は、とにかくよく食べた。体を大きく、強くしようと、1日に8食は食べていたという。そんな食生活を支えてくれたのが、母・弥栄子だ。
「チームの朝練の前から走っておきたかったので、朝の5時には学校に向かっていましたが、それに合わせて母親は毎日3時には起きてお弁当を3、4個と朝ご飯を作ってくれていましたね。苦しい家計をやりくりして、ささみとかブロッコリーとか、筋肉を付けるために必要なものもちゃんと食べさせてくれて。ラグビーをするためのサポートは、本当に手厚くしてくれたと思います」