「死に並々ならぬ興味がある」子どもたち
誰しも10代の体と精神の成長には、第二次性徴の発達でホルモンバランスが崩れることによる大小の混乱がつきものだ。そしてその混乱の出方には大きな個人差があり、受け止めきれなくなる子どもがいる。90年代からつらつらと思い起こすだけでも、小学高学年から大学生まで、10代で「人を殺してみたかった」と自分以外の誰かの命を奪う(あるいは未遂)事件を起こした子どもたちは、男女問わず社会に一定数現れた。
その対象は、同級生や親、見知らぬ他人、幼児や高齢者という場合もあった。その方法も、毒を盛るものから、刃物で傷つけるもの、鈍器で叩きのめすようなケースもあった。深刻に病的な性癖と関わっているケースや、よく指摘されるように、事件前の兆候として犬猫などの動物虐待が見つかっていたケースも少なくない。
少年犯罪が起きると、親子関係が、家庭不和が、という「親の育て方」話が必ず出現するが、個人の脳の傾向・特徴が生育環境の問題などをはるかにしのぐことは、神戸連続児童殺傷事件(通称:酒鬼薔薇事件)や名古屋大学女子学生による老女殺害事件などで日本社会も学習したはずだ。
似たような事件が決して絶えないことには、もしかしてこれは人間の脳と身体の成長・発達上、普遍的な問題なのではないかと感じさせられる。だが普遍的だからといって不可避なわけではなく、そこは義務教育期間に傾向を発見して適切に導いていく教育分野と、「そういう子どもは一定数いる」とあらかじめ知識をもって子育てをする家庭の仕事でもあるのだろう。
だがそれ以上に、この「殺人や傷害事件がエンタメ化する時代」の子どもたちには、他人同士の人間が共に生きていく枠組みとしての社会ルールとして教えておかねばならないことがある。「どうして人を殺しちゃいけないんですか?」などという質問を見透かしたように大人に投げ掛けてみせる子どもたちと、そう問われて答えに詰まる大人たちの社会だ。
「人の命を奪うことは、この世の中のルールでは問答無用で犯罪だ」という合意の下で私たちは生きている。そして一度その犯罪を犯すとどうなるか。容赦なく、「犯罪者でない人生には、もう二度と戻れない」のである。「これをしたら、この先どうなるか」と自分が行うことの結果を想像する力は、そのまま人間の教養だ。「殺してみたかった」で無残に命を奪われた幼児の家族の悲しみ苦しみや、「予行練習」で重傷を負わねばならなかった母娘が経験した恐怖と痛みは、自分本位な「死への興味」なんかで説明されて終わるものではないのだ。
河崎 環プロフィール
コラムニスト。1973年京都生まれ神奈川育ち。慶應義塾大学総合政策学部卒。子育て、政治経済、時事、カルチャーなど幅広い分野で多くの記事やコラムを連載・執筆。欧州2カ国(スイス、英国)での暮らしを経て帰国後、Webメディア、新聞雑誌、企業オウンドメディア、政府広報誌など多数寄稿。2019年より立教大学社会学部兼任講師。著書に『女子の生き様は顔に出る』『オタク中年女子のすすめ~#40女よ大志を抱け』(いずれもプレジデント社)。
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