今日もまた電車が止まっている。改札の電光掲示板を見上げて私は小さく舌打ちした。いま私が住む沿線は、職場も学校も都内にある人々が住む郊外のまちを横一直線に貫く、殺人的なラッシュで悪名高い沿線だ。朝、都内へと向けてピストン輸送で大量に送り込まれたサラリーマンや学生が、夕刻になると再びピストン輸送で郊外へ送り返されてくる。その通勤・通学電車が、止まっている。人身事故だとの電光表示に、今となっては乗客の誰一人、眉ひとつ上げずに手元のスマホに目を落とす。たまたま何かの巡り合わせで重なるときは、1日に2度3度「人身事故で」止まることも珍しくない沿線だ。ただ、その日は少し勝手が違った。朝7時前、女子中学生が飛び込んだのだ。

 

年間3万人の自殺者を出すという現代日本社会。繰り返される自殺の報道に、みんな絶望的に感覚が麻痺している。社畜とかブラックとか、そんなタームに目も耳も慣れて、それにおかしいと声を上げるのは逆に社会人として未熟だそれが日本だ、我々は常にこうやってきたのだ、代案が出せないのなら黙っておけと、ネットで赤の他人に諭されたりする。

 

でもね、大人が自殺するのも悲しいことだし、それが常態化して、まして文化だくらいに言う輩がいるなんて絶対おかしいけれど、子どもが電車に飛び込んだり、橋の上や校舎から身を投げたりしたという自殺報道を目にすると、胸が張り裂けそうな思いになる。誰も助けてあげられなかった、という無念さでいっぱいになる。

 

18歳以下の子どもの自殺統計をとったところ、最も多かった日が学期始めの9月1日、そして春休み・夏休みの終わりに自殺が集中していることがわかったという。

 

18歳以下の自殺、42年分を集計したら、最も多かった日付は…

 

折しも世間は子どもたちの夏休みがそれぞれ終わりに向かう8月末、データを裏付けるかのように、始業式を前にして子どもたちの自殺報道がパラパラと出始めている。長い「解放」の時期が終わりを告げ、また「抑圧」の日々がやってくるという精神的なプレッシャーが子どもにかかるのは、理解出来るような気がする。大人でも、出勤始めの憂鬱な月曜日に自殺件数が多いことはよく知られている。

 

でも、「解放」って、あの死んでしまった子たちは夏休みの間、何から自由になっていたのだろうか。再び立ち向かうことが怖くて嫌で仕方ない、絶望的な「抑圧」って、何なんだろう。学校に何があるんだろう、あの子たちは学校で何を見ていたんだろう。あの子たちにとっては、それをもう一度味わうくらいなら猛スピードでホームに突っ込んでくる電車の前に身を投げた方がはるかに楽になると思えるくらいの「何か」が、夏休みの終わりと同時に始まるのだ。学校自体はただの古びた建物と埃っぽい校庭のセットでしかないのに、新学期が始まって先生や生徒たちがそこへ詰め込まれた途端に、その逃げられない「何か」が始まるのだ。それはいじめかもしれないし、受験勉強かもしれないし、他人からはどう見えようとも、本人にとっては自分を飲み込む真っ黒で強大な恐怖なのだ。誰にも相談できない、相談できる相手がいない、あるいは相談しても理解してもらえない。「苦しい」「怖い」のに「理解してもらえない」孤独、絶望ったらない。そう、結局人間が一番怖い。