中絶の是非は、ディベート好きの米国で倫理観や正義と相性のいいネタだった
学校で性教育すらまともに受けてこなかった繊細な大人の多い日本では、中絶というと「口にしてはいけないこと」と思うらしく、今回の件について積極的な関心を表明しにくいようだ。だが当のアメリカでは、大学授業などの討論ネタとして、中絶は大麻の合法化に並んでド定番中の定番というくらいにポピュラーだった。
そんな授業ではだいたい「中絶は女性の権利だ」と述べる側に対して「中絶は殺人だ!」とエキセントリックに叫ぶ反対派がいて、妊娠や中絶や流産の現実なんてほぼほぼ知らない、概念だけを弄ぶ大学生の間で幼稚な拍手が起こり、「いいぞー」と笑い含みに囃し立てるのである。
人工妊娠中絶は、倫理観や正義と相性のいい論争であり続けた。出産は、「かつて産まれた人(いまそこに存在する人間全員)」や「産む主体」「産ませる主体(筆者としても非常に不愉快な表現だが)」として誰もが参加でき、しかも「物理的に増える」というベクトルのおかげで社会に祝福されがちな「いい話」だからだ。そのいい話を台無しにする中絶なんてものは「とんでもない非道」であり、「殺人だ!」と、宗教という巨大な味方を背後につけることで、声高に非難することができるのである。
だが、産む側の女性が自分の体と人生に対して持つ権利はどこだ? そもそも、産ませる男はどこにいる? 全ての妊娠が歓迎される妊娠じゃないことは、まさか大人の皆さんなら知らないわけがないだろう。それによって彼女の身に起こる、人生のコース変更やスローダウンと、出産までの不安や葛藤や身体的負担と、最低でも20年ほど(状況次第ではそれ以上)のケアと、「そうでなければ手に入ったはずの人生」は? もう一度聞くが、この話の中で男はどこだ? 産むか産まないかは、どこまでも厳然と、産む主体(女性)が選択すべきことなのである。