末澤誠也の「子どもじみた崇拝」は「若者が一度は通る道」なのかもしれない
「15年前に起こした火事の被害者に謝りに行ったら抱きしめられる」青年・拓海を演じたのが末澤誠也。戦慄するのは、劇中の役の年齢としては20代半ばであるはずなのに、精神的に未熟、それどころか「子ども」にさえ見えることです。何しろ、彼は綾野剛演じる被害者の埜本と友達になるどころか、「メンター(指導者、助言者)」として「崇拝」していくのです。公開されているキャラクター動画から、その危険性はわかるでしょう。 「埜本さんは俺を生まれ変わらせてくれるメンターなんだよ!」「(しゃがみ込んで悶絶しながら)嫌わないでください!お願いします!」「埜本さんは本当にすごいの!俺は埜本さんに一生ついていくの!」
自身が人生をめちゃくちゃにしたはずの相手を崇拝することはやはり異常そのものにも思えますが、部分的には共感もできるし、なんなら大局的には彼の言動が「若者が一度は通る道」にも思えることが笑うに笑えません(でも笑える?)。
自分がまだ何者でもない、または自己嫌悪に陥っている時に、自身の価値観を大きく揺さぶる人や言葉に出会い、それを絶対の価値観として「信じる」ことは、むしろ普遍的なことでしょう。
「土下座の練習」も重要だった
そんな拓海の言動は、「素直」で「純粋」で「真面目」であり、なんなら「良い子」とさえ言えるでしょう。実際に、末澤誠也が、自身の役についてこう分析しています。さらに、末澤誠也は映画初主演にしてW主演を務めることへの責任を感じており、クランクインまでは本当に怖かったものの、磯村勇斗と綾野剛から「3人で一緒に作っていこう、何でも受けとめるよ!」という感じで迎えてもらったそうです。すごく素直なんですよね。素直だからこそ、埜本の言うことをすべて吸収していったと思うんです。3年前まで引きこもっていたこともあって、思考に偏っているところがあったり、感情やストレスの発散の仕方がわからなかったり、実年齢よりも中身が子どもっぽいなとも思っていて。実際にそういうシーンも出てきますし、そこでの表現の仕方はいかにも拓海らしいなと。監督から指示があったときも、やっぱり拓海ってこういう感じだよなと腑に落ちていく感覚がありました。
「磯村さんと綾野さんの素晴らしいお2人とご一緒できる、そのチャンスをいただけたのがとにかくありがたくて光栄で、どうにかして2人にしがみついて頑張りたいな」という気持ちにもなったのだとか。
しかも、劇中で印象的な「土下座」について、末澤誠也は「人生であんなに土下座をしたのは初めて」と思い返すほどに、家で真面目に練習していたのだとか。
その土下座は、吉田監督から示された細かいニュアンスを参考にしつつ、自身でさらに作り込んでいったそう。おかげで、劇中の土下座は「顔だけ起こしたり、お尻がどんどん上がったりと演出もエスカレート」していたらしく、末澤誠也は「(大きく分けて)2回ある土下座の“違い”も感じ取っていただけたらいいな」とも語っているのです。
とはいえ、この土下座は劇中で言われている通り「パフォーマンスのための謝罪」でもあり、客観的には白々しく見えてしまうもの……のはずなのです。
しかし、土下座の練習を重ねた末澤誠也、そして劇中の拓海はどこまでも「本気」です。だからこそすべてを否定しきれず、なんなら愛嬌たっぷりで憎めない。「思わず許してしまいたくなる」と感じさせられるのは、末澤誠也という人自身の魅力と努力があってこそだったと思います。



