低評価の理由1:『ハムレット』や『神曲』の影響が「不自然さ」につながった?
本編の低評価の理由はたくさんありますが、特に「場面転換が唐突」「感情移入ができない」「セリフ回しが説明的で不自然」といった意見が目立ちます。「細田監督による脚本の不出来がだから」と言うこともできますが、それよりも大きいのは、シェイクスピアの『ハムレット』という舞台劇(戯曲)を物語のベースとし、さらにダンテの『神曲』という抒情詩からも強い影響を受けていることだと思います。
『ハムレット』は自身の父を殺した叔父への復讐を決意するものの、さらに別の人物に復讐の種が芽生え、さらなる悲劇が連鎖していくという物語です。スカー“レット”という名前もハム“レット”から取られていますし、その他のキャラクターや、有名なセリフ『生きるべきか死ぬべきか(To Be or Not to Be)』も、『果てしなきスカーレット』に反映されています。パンフレットで細田監督は、1988年に日本で公演された『ハムレット』の舞台への強い印象も語っていました。
それを思えば、『果てしなきスカーレット』での「声を大きく荒げて気持ちを全部言う」「場面展開の切り替えが“飛んでいる”」ような印象も、なるほど「『ハムレット』の舞台っぽい演出」に近いと納得できるところもありました。
『神曲』は死後の世界での旅路を描く物語であり、『果てしなきスカーレット』が死者の国を舞台にしたロードムービーであることと一致します。パンフレットで細田監督は「高校の受験期の頃に読んだのですが、ダンテが地獄を旅して、死んでしまった歴史上の有名人と次々と出会っていくのが、一種のタイムリープのように思えて、『地獄ってすごく面白い!」と感じていたのを覚えています」と語っています。
スカーレットが自身とゆかりのある人物と出会っていく過程は、『神曲』の影響があるのはもちろん、彼女が自身の復讐心へ向き合うための「心象風景」でもあるのだと解釈できるところもありました。
しかし、そうだとしても、実際の本編では「『盗賊が盗賊を襲っている』というセリフは説明的すぎないか」「ここで『生きる』と言うのはクライマックスからしても野暮じゃないか」「おばあさんが投げた鼻くそが爆発するのは何なの?」「このキャラクターの特徴を描いておいて、こうなるのはおかしいのでは」と、やはり表面的なツッコミどころが目立ってしまう、脚本をもっとブラッシュアップできたのではないかと思う部分があまりに多いです。
「死者の国」という「抽象的な世界観」だからこそ、「観念的なセリフ」や「理屈に合わない展開」もある程度は飲み込みやすくなっているともいえますが、どちらかといえば都合の良い「免罪符」のように見えてしまう場面が多く、それは多くの人にとっては許容範囲を超えてしまうでしょう。
低評価の理由2:渋谷のミュージカルシーンで覚える「共感性羞恥心」
さらに、不自然さをどうしても感じてしまうのは、渋谷でのミュージカルシーンです。もちろん「未来または違う世界への希望」を託したシーンとして理解はできるのですが、物語上の置き方としてあまりに唐突ですし、あれほどたくさんの人が渋谷で踊っているという「あり得なさ」が意図的なものだとしても、多くの人が戸惑うか、もしくはミュージカルでありがちな共感性羞恥心を覚えてしまうのではないでしょうか。 なお、歌唱を担当しているのは現役高校生シンガー・ソングライターのMayaと「離婚伝説」のヴォーカルの松田歩。高揚感があり素晴らしいのですが、細田守監督自身が担当した、あまりにストレートな歌詞の評判も今ひとつです。せめて、もう少しだけでも物語上での置きどころや、より良い表現のバランスはなかったのかなと思ってしまいます。
相対的に、「アニメでミュージカルを違和感なく表現することは難しい」ことも思い知らされます。比較でタイトルを出すのも申し訳ないですが、『アイの歌声を聴かせて』と『トリツカレ男』が、表現としても物語上の置き方としても、いかに受け入れやすくするための工夫が凝らされているのかが、相対的に分かるところがありました。そもそも、細田監督の前作『竜とそばかすの姫』はミュージカルシーンの迫力も、物語としての「つかみ」としても抜群だったのに……と思ってしまいます。
また、後述する通り3DCGの出来栄えは全体的に素晴らしいと思えたのですが、ヒーロー的な立場のキャラクターの聖(ひじり)は長い手足の動きが不自然に感じられる場面が多く、この渋谷でのシーンで「ダンスが上手だったとは思えない」になってしまったのも、非常にもったいなく思えました。聖という名前通りに「聖人君子」的にさえ思えるキャラクターの印象および、そもそもの日本の看護師が中世ヨーロッパ風の世界に迷い込む「異物感」も含めて、賛否を呼ぶのも致し方ないでしょう。



