小学生の頃に訪れた転機
そうした幼少期の環境に大きな変化が訪れるのは、萌が小学校低学年の頃だった。双子の兄の1人・拓が腎臓の病気になり、闘病生活を余儀なくされるのだ。2人の兄はいずれも地元の選抜チームに入るほど有望だったが、拓は5年生の途中でサッカーを諦めなくてはならなかった。「透析している姿も見ていましたし、拓がサッカーを辞めなくてはいけないと知って、すごく複雑な気持ちでしたね。中学、高校と進むにつれて、『サッカーをやりたくてもできなかった拓の分まで、俺が頑張らなきゃいけない』って、強く思うようになりました」
兄・拓の病気は不幸な出来事ではあったが、萌に大きなモチベーションを与えただけではなく、家族の絆をさらに強めるきっかけにもなった。そして拓が大学生になり、母の腎臓の1つを移植できたおかげで、幸いにも病状は改善に向かっていく。
「もちろん今も投薬は続けていますが、もう透析はしなくなりましたし、日常生活に大きな支障を来すことはありません。腎臓を提供し、長時間の移植手術に耐えてくれた母をはじめ、全員で拓の病気を乗り越えられたのは、家族にとってとても大きかった。子どもに対する親の愛情、ぬくもりというものを、僕自身も強く感じられた時期でしたね」
U-15日本代表入り。名門・前橋育英へ
後に短期間ながらJFL(日本フットボールリーグ)のアルテ高崎でプレーをするもう1人の兄・聡と共に、萌は拓の思いも背負いながら、めきめきとサッカーの腕を磨いていく。中学3年生でU-15日本代表入りを果たすと、高校は聡と同じ群馬の名門・前橋育英に進学した。「Jクラブのユースからも声を掛けていただきましたが、聡から前橋育英の話はよく聞いていましたし、最終的には『高校サッカーで勝負しよう』と自分で決めました。高校を卒業して浦和レッズに入団するときもそうでしたけど、両親が進路について口出しすることはありませんでしたね。その代わり、サッカーを続けていく上でのサポートはできる限りのことをしてくれました」
Jリーグが誕生したのは、小学校低学年の頃。今とは違い、当時はまだプロとしてヨーロッパでプレーすることがイメージしにくい時代だったが、萌は早い時期からそんな夢を抱いていたという。
「中学3年でU-15日本代表に選ばれて、フル代表の選手たちと同じデザインのユニフォームを着て戦ってから、『俺はサッカー1本で生きていく』、『将来はヨーロッパでプレーするんだ』という目標を具体的に思い描くようになりました。そんな夢も両親はごく自然に受け止めてくれましたし、そのために必要なものは買い与え、日々の練習の送り迎えから食事面まですごく気にかけてくれた。感謝しかないですね」
その後、前橋育英、浦和レッズで成長を遂げると、2011年にはドイツへと渡り、ついにヨーロッパでプレーするという夢にたどり着く。双子の兄という競争相手の存在、兄・拓の病気とそれを乗り越えた家族の絆、何も言わずに夢をサポートしてくれた両親の愛情、そして何よりも自身のサッカーに傾ける情熱が、細貝をトップアスリートへと押し上げたのだ。