ここでは、ぜひ注目してほしい劇中の“抱き付く”シーンの意図について解説するとともに、トトロが「いてくれるだけでいい」存在であることや、サツキの描写における宮崎駿監督の優しさ、さらには“姉妹”の物語になった理由も記してみます。
※以下からは『となりのトトロ』の結末も含むネタバレに触れています。ご注意ください。
1:サツキはメイよりも先に“飛び出る”。しかし、病院では……
まず注目して欲しいのは、劇中で「しっかり者」に見えることが多い小学6年生のサツキが、実は4歳のメイよりも「先に飛び出ていく」「正直すぎることを言っている」ことです。例えば、初めて引っ越し先の新しい家の近くに来たとき、トラックから勢いよく先に飛び出したのはサツキの方です。サツキは「木のトンネル」に感動し、メイとお父さんに「早くーっ!」と急かして、さらには一軒家を見て「わあーっ、ボロッ!」と言ってしまうのです。 しかし、お母さんのお見舞いに来た時は、サツキの態度がガラリと変わります。サツキは病室に入る時に他の患者さんに「こんにちは」とあいさつをする一方、メイは「あーっ! お母さーん!」とすぐに飛び出して抱き付くのです。一軒家に初めて来た時はメイよりも好奇心旺盛で無邪気にも見えるサツキでしたが、ここでは「周りの大人に配慮している」ことが分かります。
一方、バス停でトトロの姿を初めて見たサツキは、その後にバスから降りてきたお父さんにメイと同時に抱き付いて、「(ネコバスが)こわーい!」「えへへ、会っちゃった、トトロに会っちゃった! すてきーっ!」などと心からうれしそうに話していました。
夜の庭でトトロがコマに乗った時……メイは大喜びし、すぐにジャンプしてトトロに抱き付きますが、サツキはすぐには同じようにできません。しかし、トトロの笑顔を見たサツキは、打って変わって喜びでいっぱいの顔になり、メイと同じように抱き付き、「私たち、風になってる!」と大きな声で言うのです。 サツキは、トトロの笑顔を見て「今は背のびをやめてもいい」「子どもとして無邪気に振る舞っていい」のだと気付き(あるいはそのことすらも意識せず)、思い切って抱き付くことができたのでしょう。
2:「ただいてくれるだけでいい」トトロの存在
トトロは、サツキやメイにとって(トトロはそんな意思なんて持っていないでしょうが)「周りを気にせず子どもらしく振る舞っていい」ことを示してくれる存在ともいえます。事実、宮崎監督は「サツキとメイにとって、トトロと出会うということは、どういうことなのか?」という質問に対して、こう答えています。(以下、宮崎監督の言葉は『ジブリの教科書3 となりのトトロ』(文藝春秋/2013年)より引用)終盤でトトロは「ネコバス」という別の存在を呼び、そのネコバスが迷子になったメイの元へと連れて行ってくれたりはしましたが、なるほど、それ以外ではトトロは「ほとんど何もしていない」ともいえます。 トトロは初めてメイと出会った時もほぼ寝ているだけで、一緒にバスを待っていた時もサツキとメイに木の実が入った包みを差し出したくらい。トトロに抱き付いて飛ぶシーンも、宮崎監督は「『ああっ、私たち、風になってる!』、それでおしまいでいいんです。それ以上、何があるかと言われても、それだけなんですよ」と答えていたりもするのです。「トトロが存在してることだけで、サツキとメイは救われてるんですよ。“存在しているだけで”です。迷子を見つける時に、手助けしてくれたけれども、でもあの時トトロが一緒に行っちゃダメだと思ったんです。(中略)トトロはいるんですよ。いることによって、サツキやメイは孤立無援じゃないんですよ。それでいいんじゃないかと思うんですよ……」
トトロはもちろんファンタジーの存在ではあるのですが、一方で現実の子どもにも存在し得るイマジナリーフレンド(想像上の友達)だと解釈することもできますし、それは子どもにとって本当にいてくれる(と信じている)だけで精神的な支えになっているといえます。「いてくれるだけでいい」存在を改めて示すこと、それを豊かなアニメで表現していることも、『となりのトトロ』の大きな意義だと思うのです。