2:登場人物に「寄らない」カメラ
さらなる特徴は、カメラが全くと言っていいほど登場人物に「寄らない」こと。遠い場所から俯瞰的に家族の姿を映しており、リアリティーショーやドキュメンタリーのようだと錯覚するほどです。その撮影方法も特殊です。最大10台の固定カメラを、セット内の異なる部屋それぞれに用意し、5人の撮影チームが遠隔操作しつつ同時に撮っていたのだとか。ジョナサン・グレイザー監督は壁の向こうにあるトレーラーから複数のモニターを見ており、即興で作られたシーンもあれば、慎重に台本が書かれたシーンもあったのだそうです。
筆者個人としては、これは「客観的視点」を持てる、題材に非常にマッチしたスタイルだと思います。文字通りに「一歩引いた視点」があってこそ、前述した「大量虐殺の事実」と「どこにでもありそうなホームドラマ」の両方を認識しやすくなりますし、それらをいい意味で「傍観するしかない」感覚も得られるからです。
それぞれの部屋や庭を登場人物が自由に移動しているような「連続性」が見えるのも、この手法ならではでしょう。 また、『関心領域』と『オッペンハイマー』は、どちらも「歴史的な大量虐殺の中心にいた人物(の罪)を描く」ことが共通しています。しかし、前者はこの手法により客観的視点を、後者は「主観」を描いているというのも興味深いところ。『オッペンハイマー』は登場人物の表情を大きく映した場面が多く、それでこそ主人公の内面を鋭く深く表現しているのですから。
3:主人公夫婦は「はっきりと実在の人物」に
主人公である、一家の大黒柱かつ、アウシュビッツ所長のルドルフ・フェルディナント・ヘスは実在の人物です(ルドルフ・ヘスとも略されますが、ナチス党副総統であるルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘスとは別人であることに注意)。 そのルドルフ・ヘスと同等に重要な描かれ方をされるのが、その妻のヘートヴィヒ。ジョナサン・グレイザー監督は脚本を書き始める前に2年間にわたって調査をしており、前述した「転勤への文句」も庭師の証言に実際にあったものなのだとか。実は、『関心領域』の原作小説ではヘス夫婦をモデルにしつつも、主人公夫婦は架空の名前の人物になっていていました。今回の映画では、さらなる作り手の膨大かつ詳細な下調べのもとで、(描かれていたこと全てが真実とはいわなくても)「実話」を描く覚悟のある作品に仕上がったと言っていいでしょう。
4:「自分ごと」として考えられる
ジョナサン・グレイザー監督は本作について「ある意味で我々を描いた物語でもある」「我々が最も恐れているのは、自分たちが彼らになってしまうかもしれないということだと思います。彼らも人間だったのですから」と語っています。 これもまた背筋の凍るような指摘です。本作の「アウシュビッツの隣で幸せに暮らす家族を描いている」というシチュエーションだけ聞けば、「自分が生まれる前の時代の、遠い国での関係のない話」と思われるかもしれませんが、「自分の生活圏または隣にある問題から目を背けている」「その場所の良い面だけを都合よく享受しようとしている」と言い換えれば、現代の日本でも他人事だと思えない、普遍的な物語に見えてこないでしょうか。そもそも、主人公のルドルフ・ヘスは自分と家族を守るために仕事をしている、妻のヘートヴィヒや子どもたちはそのおかげで平和で理想的な暮らしを得ているともいえます。そうした恩恵ばかりを重視して、「他の犠牲をいとわない」という心理が働いてしまうというのも、「人間」の恐ろしいところなのだと思えます。 この映画を見れば、物理的な距離としての身近な問題でなくても、社会全体に影響を及ぼす問題に目を向けたり、タイトル通りに自身の「関心領域」がどこまであるのかと考えるきっかけにもなるでしょう。ジョナサン・グレイザー監督はアカデミー賞の授賞式にてイスラエルの攻撃、ガザ地区への侵攻についても言及しており、それもまた現代の問題なのだと強く思わされます。
そして、ここでは詳細は伏せておきますが、映画の終盤では「えっ!?」と多くの人が驚くであろう、とある「飛躍」があります。これはそれまでの流れを意図的に断ち切るような、人によっては困惑を覚える演出および表現でもありますし、提示される「視点」そのものが問題提起に対して的外れに感じてしまう人もいるかもしれません。
しかし、個人的にはこれもまた、「自分ごと」として考えられる、「現実と地続き」であることを強く観客に訴えるための手法なのだと納得しました。その賛否も含めて、見た人同士で話し合ってみるのもいいでしょう。