5:『名探偵コナン』のセリフは「中の人ネタ」だけじゃない
マサムネが「真実はいつもひとつ! なんつって」と言うのは、言わずと知れた『名探偵コナン』(小学館)の江戸川コナンのセリフ。どちらの声優も高山みなみであり、いわゆる「中の人ネタ」になっているのです。このセリフは原作にないのはもちろん、当初の台本にもなかったそうです。原恵一監督は「アフレコする前に、高山さんならではの演出ができないかな」と考え、「(もともと別の作品のセリフなので)断られないか心配していた」ものの、高山みなみ本人から快諾してもらえたのだとか。
ただ、これは単なるお遊びではなく、「真実はいつもひとつ!」にスバルが「なにそれ?」と返すことが、「キャラクターがそれぞれ別々の年代に生きていた」という1番のサプライズの伏線にもなっています。
スバルが生きていた1985年にはまだ『名探偵コナン』の原作漫画もアニメも存在しないため、スバルにはそのセリフの元ネタが分からない、というわけなのです。
ただ……そういう明確な理由付けがあるとはいえ、個人的には「せっかく映画に没入して見ていたのに、そんな余計なネタ入れるんじゃないよ!」と文句を言いたくなったのも正直なところ。メタフィクション的なギャグが合うタイプの作品もありますが、本作はそうではないと思うのです。
余談ですが、本作にはほかにもボイスキャストの小ネタがあります。例えば、リオンの少年時代の声を担当していたのは『クレヨンしんちゃん』の野原しんのすけ役を前任していた矢島晶子。実は冒頭の心の教室でのガヤガヤとした子どもたちの声から、「しんのすけっぽい声」も聞こえており、そちらも矢島晶子が担当しています。
さらに、オオカミさまの最後の「善処する」というセリフは、オオカミさまをこれまで演じていた芦田愛菜ではなく、リオンの姉のミオを演じていた美山加恋の声になっています。
6:オープニングの意味と、現実でも見つけられる希望
映画はこう始まります。「ねえ赤ずきん、読んで、読んでってばぁ」という男の子の声が聞こえてきて、シーツの中で眠っていた髪の長い女の子が、今まで見ていた夢を振り返ったためなのか、クスッと笑います。映画を見終わってみれば、男の子の声は幼い頃のリオン、クスッと笑った女の子はリオンの姉のミオ=オオカミさまだと分かります(オオカミさまは子どもたちを「赤ずきん」と呼んでいて、さらに「オオカミと七匹の子ヤギ」も子どもたちのモチーフになっていました)。
病床にふせっていたミオは、薬の副作用で髪が抜けていた(または短髪になっていた)ので、このオープニングはそれよりも以前の、「ミオが(リオンに絵本を読んでと頼まれた)楽しい夢を見ていた」幸せなひと時かもしれません。
はたまた、ミオがオオカミさまとなってかがみの孤城の冒険を夢見たあとの満足感が、ほほ笑みとして表れたのかもしれません。いずれにせよ、ミオの「希望」や「幸福」そのものを示すシーンと言ってもいいでしょう。
そして、かがみの孤城は現実には存在しないファンタジーでもありますが、現実にもこころが通うフリースクールはありますし、子どもたちが学校以外の場所での交流で、大切な価値観を知ることはありえます。
さらに、「夢を見る」という形で、現実ではかなえられない幸せな時間を過ごして、その記憶が残っていなくても、それが現実で生きるための「糧」になるのも、ありえることです。
そのように考えれば、かがみの孤城は全てがファンタジーの絵空事や夢物語ではない、似たような場所や経験はきっと現実にもある、という提言にもなっています。
この物語は「そんな奇跡が起きないことは、知っている」などといった、こころの絶望的なモノローグから始まっていますが、ラストでこころは(オオカミさまが「善処する」と言っていたように記憶が残っているのかもしれないし、そうではないかもしれない)リオンと再会します。
これからのこころの人生にもきっと困難はあるでしょうが、これからはリオンという心強い味方がいる。奇跡は、現実でもきっとあるのだと、希望を示してくれる物語でもあったのです。
また、「キャラクターがそれぞれ別々の年代に生きていた」というトリックは、単なるサプライズというだけではなく、「いつの時代も子どもたちは悩みを持っている」「かつて子どもだった大人が(時には子どもたちと対等な友達のように)接して救ってあげられる」という、それもまた現実につながっている教訓でもあると思うのです。
余談ですが、ミオ=オオカミさまの意志や目的は、原作ではさらに詳細に書かれています。ほかにも、原作では「クリスマスの日」や「アキのおばあちゃん」など、映画で削られたエピソードがいくつかあるため、ぜひ併せて読んでみてほしいです。「テレビゲームがすごく進歩しているから時代のズレに気付くだろ!」といったツッコミどころのいくつかも、きっと解消できると思いますよ。