【連載:アスリートの育て方 ーVol.3ー】
ラグビーのワールドカップ(W杯)が、2023年9月8日(日本時間9月9日の早朝)にフランスで幕を開ける。
8年前の2015年W杯で強豪・南アフリカを相手に歴史的な大金星を挙げ、自国開催の前回大会では史上初のベスト8進出を果たして一大ムーブメントを巻き起こした日本代表は、さらに上の成績──ベスト4以上──をめざして今大会に挑むことになる。
日本ラグビー界の小さな巨人・田中史朗
こうした右肩上がりの成長を、中心選手として支えてきたのが、ラグビー界の“小さな巨人”、田中史朗だ。W杯は2011年大会から3大会連続出場。正確無比のパスワークと優れた戦術眼を備えたスクラムハーフ(SH)の存在なくして、近年の日本代表の快進撃はあり得なかっただろう。
身長166センチ、体重72キロ。ラグビー選手としては体格に恵まれず、京都の名門・伏見工業高校の3年次に全国大会に出場(2002年度)してチームをベスト4に導くまで、アンダー世代の日本代表に1度も呼ばれることのなかった田中は、いかにして世界でも通用するSHにまで上り詰めたのか。
その原点を探るべく、38歳になった現在もリーグワンのNECグリーンロケッツ東葛で現役を続ける田中に、幼少期の両親との思い出を聞いた。
スパイクを買うのも大変な暮らしの中で
国宝の五重の塔で有名な世界遺産、京都の東寺にほど近い場所で、田中史朗は1985年1月3日、3人兄弟の末っ子として生を受けた。実家は代々続く農家で、九条ネギやキャベツなどを栽培していたが、当時の田中家の生活は決して楽ではなかったという。
「大人になってから両親に聞いた話だと、本当にお金がなかったらしいです。一緒に農家をしていた祖父母の援助があったとはいえ、僕のスパイクを買うのも大変だったと思います。今思えばオカン(母・弥栄子)なんて、いつも同じ服を着ていましたから(笑)」
そんな生活の中で、史朗は厳しく育てられた。とくに少林寺拳法の黒帯だったという父・義明は、「普段はやさしいけれど、怒るとめちゃめちゃ怖かった」(史朗)ようだ。
「小さい頃から泣き虫だったので、泣いたら怒られましたし、小学生の時は夕方の5時までに帰ってこなかったら、晩ごはん抜きで裏の小屋に閉じ込められたりもしました。なにより、他人に迷惑をかけたり、中途半端なことをしたりすると、容赦がなかったですね(苦笑)」
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