映画『8番出口』と共通するのは「手法がテーマを担う」こと
本作の監督・脚本・編集を務めるのは、監督集団「5月」。これまでは佐藤雅彦を含む3人体制でしたが、今回の『災』では関友太郎と平瀬謙太朗というコンビでの体制になっています。特に、平瀬謙太朗はゲームを原作とした大ヒット映画『8番出口』の共同脚本および監督補を務めているということが重要でしょう。 その「5月」は「手法がテーマを担う」という言葉を標榜しており、それは今回の『災 劇場版』はもちろん『8番出口』でも、確かに共通しています。『災』では「6人の男女の日常に訪れる災いの傍には謎の男が常にいる」ことを持ってして「災いに遭遇する不条理さと理不尽さ」を示していましたし、『8番出口』では「無限に続く迷宮のような通路に閉じ込められ異変を探し続ける」ことを通じて「生き方や父親になることに悩んでいた男が成長する」物語になっていました。
つまり、『8番出口』と『災』のどちらも、「異常なことが起きている」状況と物語が伝えるものがマッチしています。特に『劇場版 災』は前述した構成も持ってして、後述する「残酷で理不尽な真理」を描き切っていると言えるでしょう。
『鬼滅の刃』と「共通していながらも真逆」の「理由」を諦める/探す物語
※以下は、まだアニメ化がされていない漫画『鬼滅の刃』21巻の内容に触れています。未読の人はご注意ください。突然ですが、『鬼滅の刃』の181話では、最大の敵である「鬼舞辻無惨」がこう話しています。
この鬼舞辻無惨のセリフは「人格のある者が自身を大災に見立てて正当化する」醜悪なものです。そして、詳しくは『災 劇場版』の本編を見てほしいのですが、この裏返しとも言える言葉を、とある人物が口にするのです。それは、身近な人が不幸にあっても、「理由」を探すことを諦める、共感できる「仕方がない」心理だったのです。「私に殺されることは大災に遭ったのと同じだと思え。何も難しく考える必要はない。雨が、風が、山の噴火が、大地の揺れが、どれだけ人を殺そうとも、天変地異に復讐しようという者はいない。死んだ人間が生き返ることはないのだ。何時までもそんなことに拘っていないで、日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう。殆どの人間がそうしている。何故お前たちはそうしない?」
それと呼応するように、中村アン演じる刑事は「人は理由なく死なない」という信念を持っているのですが、それでも“ある男”はただ淡々と不幸を届けていく……。
“ある男”が話によって人格がバラバラで、もはや人ならざる存在に見える様も含めて、鬼舞辻無惨が自分を正当化させるために大災に例えることとは真逆の、客観的には本当に災いそのものに思えるのが恐ろしいのです。
その「理由がありますように」という願いが尊いものなのは間違いありません。しかし、それでも、不幸は容赦なく、理不尽に訪れるのかもしれません。では、どうすればいいのか? 諦めるしかないのか? そんな思考を『災 劇場版』は促してくれるでしょうか。ある男によって、唐突に、理不尽に、
残酷に断ち切られる人生。
彼らの不幸に、
どうか理由がありますように。
そう願わずにはいられませんでした。
この記事の執筆者:
ヒナタカ
映画 ガイド
All About 映画ガイド。雑食系映画ライターとして「ねとらぼ」「マグミクス」「NiEW(ニュー)」など複数のメディアで執筆中。作品の解説や考察、特定のジャンルのまとめ記事を担当。2022年「All About Red Ball Award」のNEWS部門を受賞。
...続きを読む



