「3カット1000円」「いらすとや」「パズドラ」の容赦ないコンボ
麦はイラストレーター志望で、絹が自分の絵を「好きだ」と言ってくれたことを本当にうれしく思っていたのですが、現実では仕事が「3カット1000円」で買い叩かれ、さらにはあっさりと「いらすとや」に代用され切り捨てられます。そんな出来事を経て就活をするのも、本来は「就職してもイラストは描けるから」「ただ就職するってだけで、何も変わらない」という理由のはずだったのですが……麦の就業時間は20時を過ぎることも多く、仕事に忙殺され、イラストへの熱意を失い、絹と一緒に楽しんでいた漫画やゲームも楽しめなくなり、『パズドラ』しかできなくなる有様でした。
それだけでもつらいのに、イベント会社で働こうとする絹のことを「向いているとか向いていないとか、そういう問題?」「仕事は遊びじゃないよ。うまくいかなかったらどうするの?」「“好きなことを生かせる”って……人生ナメてる」とまで責め立てます。
その先の「じゃあ結婚しようよ!」という勢い任せのプロポーズは、観客も絹と同じように「思っていたのと違ってたな」と、胸を締め付けられることでしょう。
麦は「仕事が主体」の思考へと変わっていく
2人がすれ違った原因として、「イラストのギャラが常識的な範囲だったら麦だって好きなことを仕事にできたのに」「『就業時間は17時まで』の約束を全く守らないブラック気味の会社のせいだ」と言ってしまうこともできますが、本質的にはそれだけではないとも思います。転職だってできたはずのその環境に居続けたことで、麦の価値観は確実に変わってしまったのですから。「金曜に親睦会入っちゃってる」「人脈広がってきててさ」などと仕事を優先する物言いをして、『人生の勝算』といった自己啓発本を読むようにもなり、「絹ちゃんと、生活習慣が合わないってだけで」と真っ当な言い分にも思える言い訳もしたりと、麦は完全に「仕事主体」の思考をする人へと変貌してしまったのです。
麦は就職する前に、「出会って2年、楽しいことしかなかった。それを、この先もずっと続ける。僕の人生の目標は、絹ちゃんとの現状維持です」と言っていたはずなのに……。
絹は「批判的でありつつも受動的」な面もあった
麦は「周りから分かりやすく影響を受ける、真面目な良い人」であり、「自分の持っている価値観が強固」だからこそ、仕事を続けるうち、その仕事に「染まった」と言えます。そして、絹もまた、自ら命を絶った人気ブロガーの言葉を「この人は私に話しかけてくれている」と思うほどに、感受性が強い人です。
それでいて、「うちの親、新卒で就職しない人は反社会勢力だから」などと言いつつも就活を続けているなど、絹は「自身に迎合しない価値観には批判的」でありつつ、なんだかんだで「それに仕方なく従っている」受動的な面も持ち合わせています。それが就職して価値観が変わっていく麦に対しても表れていたからこそ、どんどん2人の心はすれ違っていったのでしょう。
もともと2人は好きなポップカルチャーも同じで、そのほかの価値観もほぼ同じだったため、奇跡のように楽しい時間を過ごせたのですが、だからこそ、同じだったはずの価値観が変わってしまうことが、2人の決定的な溝になってしまうというのは皮肉でもあり、必然だったとも思えるのです。
「有線イヤホン」が示していたものとは
そんな麦と絹の価値観は、完全に同じというわけでもなく、「微妙に異なっている」面もあったと思います。それを象徴しているのは「有線イヤホン」でしょう。2人が別れた後(映画の冒頭)で、麦は「LとRで鳴っている曲が片方ずつ違う。それはもう別の曲なんだよ」と、絹は「同じ曲を聴いているつもりでも違うの。彼女と彼は今、違う音楽を聴いているの」とも言っています。
それは、かつてファミレスの隣に座っていたおじさんが1時間も語ってきた内容の受け売りでもあり、2人がやはり周りから影響を受けやすい真面目な良い人である証拠とも言えます。
同時に、それはミキシングにこだわるミュージシャンをはじめ、愛するポップカルチャーのクリエイターに対し、2人がどれほどにリスペクトをしているかの裏付けとも言えるでしょう。
しかし、それ以上に、カップルがイヤホンの左右それぞれで同じ音楽を聴くことは、やはり「同じものを共有していても、それぞれの認識はどこか異なっている」という普遍的な事実そのものを示しているようにも思えるのです。
麦と絹が出会ったその日、2人ともが持っている有線イヤホンが「ねじれて」いたのは、2人の言葉の伝わり方も、またねじれていることを暗示していたといえるのかもしれません。
ファミレスで2人が泣いた理由は
本作が描いてきたことは、「時間」という大きなテーマも内包していると思います。別れを共に切り出そうとしつつも、まだ迷っている2人が目の当たりにしたのは、ファミレスで見かけた若いカップルの初々しいやりとりでした。2人ではそこで、変わってしまった今と比較するように、かつての自分たちを重ね合わせ、そして泣いてしまったのでしょう。
つまり、映画『花束』で訴えられていたのは、恋愛という事象に限らない、「時間の移ろいによって、変わらないものなど何1つとしてないこと」というもっと大きなこととも言えるのです。
『花束みたいな恋をした』のタイトルの意味は
それは残酷なことではありますが、2人が幸せな時間を過ごした思い出は決してなくならないし、ふとした瞬間にそれが奇跡のような時間だったと思い出せることもあるはずです。例えば、Googleのストリートビューに、2人で歩いている姿が映された時のように。本作は、それをもって「別れそのものを肯定する」物語なのでしょう。そして、タイトルにある「花束」の解釈は人それぞれですが、それ自体が「祝福」であり、さまざまなきれいなものが重なっていて、もらったときにはとてもうれしく、しかしいつかは枯れてしまう「期間限定」のものという意味が込められているように思えました。
野に咲く花は「根を張った」ものですが、土に根ざした確かなものがなくても、誰かへのひとときの「贈り物」として、限られた時間でのみ存在し得る花束は、一種の「はかなさ」も示しているとも思えます。
そして、そんな「花束みたいな恋」は失われても、その記憶は大切で愛おしいものとして、残り続けるのです。
離れ離れになることや寂しさをも肯定する映画が続々と公開
余談ですが、本作と同じように、離れ離れになってしまった時間と、変わってしまった価値観について、その寂しさを丹念に描きつつも肯定する映画が、2024年に『パスト ライブス/再会』『ロボット・ドリームズ』『アット・ザ・ベンチ』と続けて公開されていました。『花束』が好きな人は、こちらもぜひご覧になってみてほしいです。この記事の筆者:ヒナタカ プロフィール
All About 映画ガイド。雑食系映画ライターとして「ねとらぼ」「マグミクス」「NiEW(ニュー)」など複数のメディアで執筆中。作品の解説や考察、特定のジャンルのまとめ記事を担当。2022年「All About Red Ball Award」のNEWS部門を受賞。