結論から申し上げれば、本作は白石監督および、草なぎ剛主演作の最高傑作といえるほどの完成度。しかも、予備知識がなくても楽しめる、万人におすすめできるエンターテインメントに仕上がっていました。その理由を、スタッフとキャストのコメントも交えつつ、解説していきましょう。
1:意外とほのぼのともしている作風
本作の物語は、公式の触れ込みによると「ある《冤罪(えんざい)事件》によって娘と引き裂かれた男が武士としての誇りを賭け《復讐》に向かい、囲碁を武器に鬼気迫る死闘を描く」というもの。それだけだと壮絶な印象を持たれるでしょうが、実は意外な「親しみやすさ」がある、「ほのぼのとした人情劇」が序盤に展開することも、かなり推したいポイントです。 何しろ主人公は(度を越して)生真面目な人物。たしなんでいる囲碁にもその実直な人柄が表れていて、「うそ偽りない勝負」を心掛けています。
繊細かつ誠実な印象がある草なぎ剛とは、その時点でとても相性の良い主人公像だと思いますし、さらには國村隼と年の離れた「囲碁友達」のようになっていく様も、とても尊いのです。 本作の物語の元となった『柳田格之進』も、囲碁を巡る人情話として根強い人気のある落語なのだとか。ともかく、あらすじとはいい意味でギャップのある、序盤の「平和な時代劇」「囲碁が趣味のおじさん同士が友達になる過程」も楽しんでほしいです。
2:生真面目さと裏返しの恐ろしさ
そして、序盤の「ほのぼの人情時代劇(+囲碁もの)」があるからこそ、主人公が身に覚えのない罪を着せられてしまい、どんどん状況が悪くなっていく過程が、とても重くのしかかる物語にもなっています。初めにその嫌疑を聞かされた主人公は、激しく声を荒げて激昂します。「何も疑いがかけられたからって、そこまで怒らなくても……」と引いてしまうほど、怖くなる反応でしたが、それまで草なぎ剛というその人らしい穏やかな印象があったからこそ、いい意味でショッキングに感じられるでしょう。 生真面目ということは、裏を返せば「融通が効かない」ということでもあるのでしょう。序盤に主人公が「囲碁だけでなくあらゆる事柄にうそ偽りがない」姿を見せていたからこそ、彼がぬれぎぬという“うそそのもの”を断固として拒絶する、「こうなる」ことにもまた納得ができます。
さらに、旧知の藩士から冤罪事件の真相を知らされた主人公は、復讐を決意。客観的にははっきりと間違っているのですが、それもまた彼が武士の誇りを重んじる生真面目な人物だからこそ、という迫力を感じさせますし、理解もできるのです。
3:多層的な感情を抱かせる理由
草なぎ剛は本作で主演をするにあたって、「いまだ嘗(かつ)て感じた事のない世界観で胸がとても熱くなりました。古き良き物に宿る色あせることない魂を演じてみたいです」とコメントしています。いくら濡れ衣を着せられたからといって、復讐に向かうという決断は間違っているし止めたくなるのですが、そこには草なぎ剛の「古き良き物に宿る色あせることない魂」という言葉に近い、「武士の(極端な思想と表裏一体の)美学」も感じることができるでしょう。 草なぎ剛というその人の憂いを帯びた、繊細な印象を覆すような「激情」も、その「美学」に説得力を持たせています。善と悪の境界を超えるか超えないのか危うさもある、「間違いも含めて美しく思える」人物の妙を、すみずみまで堪能できるでしょう。
「間違っている」けど「理解もできる」し「危ういと分かっている」が「美しくも感じてしまう」。映画の中の1人の人物に、ここまで思わせてしまうことも、またとてつもないことだと思うのです。
4:収まりのつかないことになる物語
主人公の嫌疑を伝えることになる若者を演じた中川大志が寄せたコメントも、的確に物語の本質を言い当てています。「些細なことなのに、大人になったからなのか、組織の中にいるからなのか、素直に言い出せない。そんなきっかけが気付けば飛躍して自分だけでは収まりのつかないことになってしまっている」 劇中の登場人物の考えそのものには、江戸時代の風潮や武士らしい極端な思想が大いに反映されています。しかし、この中川大志の言葉通り、何かの疑いが悪い方向と向かっていく物語は、現代でも十分に起こり得るものです。
それは、疑いをかけられた当事者ではない、中川大志が演じた役柄はもちろん、出来事の近くにいた者にとっても他人事ではありません。その時点で多くの人が共感でき、怖くもあり、そして「こうならないため」の教訓も得られる作品でもあるのです。
余談ですが、本作と同じく5月17日より公開されているドイツ映画『ありふれた教室』も、中学校での盗難事件が多発したことにより、疑いが悪い方向へと波及していく様をリアルにつづった作品でした。こちらも併せて見れば、より反面教師的な学びがあることでしょう。