ニュージーランドで学んだスキンシップの大切さ
まるで、田中家4人が1つのチームのようだ。そこかしこにラグビーの精神が息づいている。
「トレーニングには水筒を1つだけ持っていくんです。終わった後は、最初に娘か嫁さんから飲むようにしているのは、女の人を大切にすることを息子に学んでもらうためですが、娘に水筒を渡すと、私はあとでいいからってママのところに持っていく。そういう姿を見て、子どもの成長を実感しています。やっぱり何をするにしても、自分のためだけにやるより、大切な誰かのためにやった方が、人って力を出せるものなんです」
厳しさの一方で、子どもたちへの愛情表現はまぶしいほどストレートだ。就寝前と出かける前のハグとキス。スキンシップの大切さは、ニュージーランドでの生活で学んだことでもあるという。
2012年に田中は、日本人として初めてラグビーの世界最高峰リーグ「スーパーラグビー」(ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカの南半球3カ国のプロチームで競うリーグ戦)に参戦。ニュージーランドのハイランダーズで約3年間プレーしている。
「本当に好きやから、愛してるから、ハグとキスはいくつになってもちゃんとしようねっていう話は、子どもたちとしています。文化の違いで、日本人はあんまりそういうスキンシップをしませんけど、僕はどんなにしんどくてもそれだけはやるようにしています」
だが、娘さんも年頃になれば、少しずつ父親と距離を置くようになるのではないか。そんな意地悪なことを言うと、田中はあっさりと否定した。
「それって、日本的な考え方だなって思います。海外ではいくつになっても父親と娘はハグもするし、キスもしますよね。中学生になったら、周りの友だちにいろいろと言われるかもしれませんが、そこは娘との信頼関係ですから。もしキスが嫌なら、ハグだけでも続けますよ(笑)」
日本とニュージーランドの教育理念の違いも、現地では感じ取った。
「もちろんイライラして子どもを叩くようなことは絶対にあってはいけませんが、人の痛みを知るという意味でも、やむを得ない場合に手を上げることを、僕は完全には否定しません。ただ、日本の教育は何事も右にならえで枠にはめようとするから、子どもたちも反発するんです。自分の好きなことをやりなさいというニュージーランドの教育とは、大きくスタンスが異なる。だから朝のトレーニングもそうですが、僕は『好きにしていいよ』っていうゆとりの部分も、あえて子どもたちには与えるようにしていますね」
周りの人から愛される人間・周りの人を憎まない人間に
子どもたちの現在の目標がアスリート。ならば、やるからにはトップを目指し、そこに少しでも近づくための環境を整えてあげる。田中家の子育ての考え方は、いたってシンプルだ。中途半端を許さないのは、厳しかった父・義明の教えにも通じるだろう。「僕と嫁に似たのか、娘も息子も負けん気はすごく強い。アスリート気質が受け継がれているかもしれませんね」
そう言って目を細める田中だが、「2人のお子さんには、将来どんな大人になってほしいですか?」と尋ねると、トップアスリートからごく普通の親の表情に戻って、こう話すのだ。
「周りの人から愛される人間、そして周りの人を憎まない人間になってくれればいいです。あとは、僕が決して認めないような人、たとえば他人を傷つけるような人を、間違っても(結婚相手として)連れてこない大人に育てたいですね(笑)」
最後に、引退後は指導者の道に進むことも選択肢の1つだという田中に、こんな質問をしてみた。
「トップアスリートになるための条件で、1番大切なものとは?」
答えは間髪入れずに返ってきた。
「努力ですね。僕なんか、足が速かったわけでも、体が大きかったわけでもなく、本当に普通の人間でしたから。努力を続けるのは難しいですが、しんどいことをやった先には、必ず栄光が待っているんだと、指導者は選手たちに教えていかなくてはなりません。ただそのためには、野球やサッカーのような成功事例を、ラグビー界がもっともっと増やしていく必要があるでしょうね」
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田中史朗(たなか・ふみあき)
1985年1月3日生まれ、京都府出身。伏見工業高校の3年次に花園で4強、京都産業大学では4年次の大学選手権で準決勝進出の立役者に。2007年に加入した三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)では1年目からレギュラーに定着。リーグ優勝に貢献し、自身も新人賞、ベスト15に輝く。2012年には世界最高峰のスーパーラグビーに日本人として初参戦。日本代表では2011年からW杯に3大会連続出場。2019年に横浜キヤノンイーグルスに加入、2021年からはNECグリーンロケッツ東葛でプレーする。
この記事の執筆者:吉田 治良 プロフィール
1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、「サッカーダイジェスト」編集部へ。その後、1994年創刊の「ワールドサッカーダイジェスト」の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。「サッカーダイジェスト」、NBA専門誌「ダンクシュート」の編集長などを歴任し、2017年に独立。