作家とはそもそも狂気の職業であり、作家の子どもは「狂気の下で育つ」
ネットとは、容赦のない悪意の沼でもある。西原さんの国民的作家としての成功の影には、サイレントなアンチの存在もあった。特にネットでの言論に積極的な高須院長憎し派が、ここに便乗。「西原批判」「西原キャンセル」が解禁、「男を踏み台にしてのし上がって行った女。もともとあの人には疑問があった」「言動をよく考えれば、本当は表には出せないような人」「みんなが思っているような聖人ではないのに、騙されてきた」と始まった。
私は『恨ミシュラン』以来30年以上にわたるファンとして、西原さんが聖人だなどと思ったわけはなく、ゲスの極みである作品群の動機はずっと「憎い」「悔しい」「苦しい」の感情だったように感じてきたし、それらが昇華していくカタルシスが、彼女の作品を読み続ける理由でもあった。だから彼女が鴨ちゃんの死を乗り越えた先でドクター高須と一緒になったとき、それが誰であるかとか経緯がどうだとかは超越して、「ああ、もうこの人(西原さん)はあの暗い感情を原動力に作品を描かずともよくなったんだ」と思い、心から彼ら2人を祝福した。西原さんは、あるインタビューで漫画家仲間に「なんかねえ……私、やっと幸せになったよ」と述懐している。「彼女としては」狂気の執筆生活の先に、幸福はあったのだ。
作家はみんな、その存在からして狂気の人々。私が以前インタビューした芥川賞や直木賞受賞作家たちは、なるほどこんなふうに浮世離れしているから創造的な文章を書くのだな、というよりも書くしかないのだな、と納得させられる異様なオーラを静かに放っていたし、みんな「小説執筆中は作品の中に生きているから、本当の生活なんかどうでもいい、子どものこともどうでもいい」「小説家なんてみんな不幸ですよ」「幸せな結婚なんて書いても3行で終わっちゃうから、本にならないんだよ」と口々に語った。
そんな作家の子どもたちは、彼らから生を受けた時点で、どこかその狂気の共犯関係とならざるを得ない、大きく重たいものを背負ってしまっているのかもしれない。檀一雄の『火宅の人』しかり、椎名誠の『岳物語』しかり、特に私小説作家の子どもたちは、思春期に親と激しい衝突をするし、自分のことをネタにされる限り、衝突するのが健全なのだろうとも思う。
私小説は、作家にとって自分だけでなく、周囲の人間の身を切る「禁じ手」でもあり、私小説での記述をめぐるトラブルは古今東西、枚挙にいとまない。活版印刷文化で、本を読む人が限られていた時代ですらそうだったのだから、ほぼ情報垂れ流しで丸見えの様相を呈するネット時代には、一層リスクが高くなっているということでもある。
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