1:激戦の地での友情の物語。『鬼太郎誕生』も連想した理由は
本作は、太平洋戦争末期の1944年に起こり、日本軍の1万人中で最後まで生き残った兵士がわずか34人だったという、これ以上ないほど凄惨(せいさん)な「ペリリューの戦い」を描いています(なお「ゲルニカ」とは、空軍による無差別爆撃の悲惨さを描いたパブロ・ピカソの有名な絵画です)。実際の証言を参考にしている部分もありますが、実は「史実を参考にしながらフィクションとして構成されている」作品でもあるのです。 フィクションにした意義は後述するとして、実質的に2人いる主人公がとても魅力的であり、かけがえのない友情を描く物語であることが、とても重要でした。
「田丸」は大人しくて心優しい漫画家志望の青年で、「吉敷」はやや攻撃的ながら頼れる上等兵で、2人は共に励まし合い、苦悩を分かち合いながら、特別な絆を育んでいくのです。 その友情について、武田一義はこう語っています。
そう、一見すると正反対のキャラに見えるけど、実は根っこは似ていて、お互いに影響を与え合って、少しずつ変わっていく……そんな2人が愛おしくて仕方がないのです。田丸と吉敷は勇敢さなど一見全く違うタイプですが、素朴さや目の前の物事に対する素直さといった根っこの部分はすごく近い2人。それが自然と一緒にい続けた理由ではないかと思いますし、どんどん似てきたところもあるかと思います。
田丸は吉敷に引っ張られて勇敢さを身に着けていくし、吉敷ははじめ「アメ公(アメリカ人の蔑称)をぶっ殺す」みたいに思い込みが強い感じだったのが、田丸に影響されて視野が広がっていくなど、お互いに影響を受けていくのは根っこに素直さがあるから。そういう意味で2人は相性が良かったのかなという風に僕の中では思っています。
その2人の友情と関係性から思い出したのが、口コミ効果で大ヒットを記録した『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』でした。川井憲次が音楽を担当しているという共通点もあります。 主人公2人の性格はまったく異なりますし、戦時中ではなく戦後直後の物語ではあるのですが、その時代だからこその「搾取構造」がまかり通る様は、『ペリリュー』で描かれた戦争の問題と「地続き」であると感じます。
また、『鬼太郎誕生』の主人公の1人である「水木」は、戦時中に「玉砕特攻」を命じられていました。苛烈な戦争の経験をした水木が、もう1人の主人公である「ゲゲ郎」と交流し、自分も変わっていく……その関係は、『ペリリュー』の田丸と吉敷にも似ていると思うのです。 さらに、田丸を演じた板垣李光人はずっと純朴さを保ちつつも不安でいっぱいなことも伝わる演技を見せ、吉敷役の中村倫也は毅然とした態度で常に冷静でありつつも内心は複雑であることも分かる、どちらもキャラクターに最大限にマッチした、素晴らしい演技でした。
ちなみに、板垣李光人は武田一義が「YouTubeで素の板垣さんの声を聞いて田丸のイメージにすごく近いと思って『ぜひお願いしたい』と伝えました」と語るほど、原作者が熱望したキャスティングだったそうです。
さらに、武田一義は「吉敷を素朴な田舎の好青年だと思って書いていましたが、中村さんの声で戦争に行っていない本来の吉敷という人物を改めて感じることができました」と称賛しています。板垣李光人と中村倫也のファンにとっても、絶対に見なければならない作品でしょう。
2:11巻にもおよぶ長編を「ダイジェスト」にしない工夫
原作漫画は外伝を除く本編だけでも11巻にもおよぶ長編ですが、映画の上映時間は106分とタイトに仕上がっています。筆者は映画の後に漫画を読了したのですが……驚きました。映画を見た時点で「ダイジェスト感」がまったくなかった上に、(漫画にはあった)明確に描かれなかった部分もわずかな描写で伝わっていたのです。
その意識の元でできあがったのは、原作からの「換骨奪胎(かんこつだったい)」や「取捨選択」といった言葉すら当てはまらない、1本の映画として「完璧に構成された」脚本でした。何より、主人公の田丸の主観に絞ったことで、序盤で起こったことと後の展開が「呼応」していることが理解しやすくなっており、後述する原作からあった物語の尊さが、より鋭く浮かび上がっていることにも感動したのです。(ダイジェスト的にせずに1本の映画として成立させるためには)原作の一番の芯の部分が何かを探さなければいけません。単純にエピソードを削ればいいというものではなく、骨格を見極めて煮詰めていき、削るエピソードもあれば補強するために足さなければいけない部分もあり、そこに最も時間がかかりました。
具体的にいうと、共同脚本の西村ジュンジさんから「田丸の主観に絞ろう」とご提案いただきました。そこを出発点にして、おのずから外れてくるものを単純になくすのではなく他で補完して、脚本を練り上げていきました。
また、一部の展開が変わっていたり、描かれていないエピソードもあるものの、主人公の2人はもちろん、他のキャラクターの印象と愛おしさはまったく変わっていません。
キャラクターが物語を動かすための「駒」にはなっておらず、「この人がこう言って“しまう”のも分かる」「この人はこの行動をしなければならなかったんだ」などと、種々の豊かなキャラクター描写から想像できます。 原作者と共同脚本家が一丸となって、それぞれのキャラクターにありったけの愛情を注いでいることが、伝わってくるのです。



