映画『ベートーヴェン捏造』が偉大な音楽家を卑近な存在として描くコメディーとしても、「狂気と愛」を描くサスペンスドラマとしても、すこぶる面白い作品でした! この「実話」を描くにあたってどのようなアプローチがされたのかを解説しましょう。(画像出典:(C) 2025 Amazon Content Services LLC or its Affiliates and Shochiku Co., Ltd.)
しかしながら、この『ベートーヴェン捏造』では「これなら日本人が演じてもいい」と、すんなりと飲み込める作りになっています。なぜなら、映画冒頭で「現代日本の中学生が音楽教師の話から“19世紀のウィーン”を想像する」という構造が明かされているから。
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冒頭の現代パートでは、山田裕貴、古田新太、染谷将太という俳優陣が「学校の先生」として登場しているので、「なるほど、先生から語られる登場人物を、中学生が身近な人に置き換えて想像しているんだな」と納得できますし、それらがしっかり実写映画ならではの「信じられる世界」の構築に結びついており、後述する「ゆるさ」を含む親しみやすさにつながっているのです。
それもまた、現代の中学生の想像(その話を伝える音楽教師)らしい語り口だと納得できますし、何より「庶民的」または「くだけた」印象のキャラが掛け合うコメディーとして楽しく見られるのです。
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実は、原作のノンフィクション本でも、「イケメン」「チャラい」「ざまあみろ。バーカバーカ」といった、度を超えたフランクな言い回しが登場します。今作のゆるい会話劇は、原作のテイストにも、バカリズムの資質にもバッチリ合っていたと言えるでしょう。
これには、関和亮監督の「事実に基づいた描写は盛らずに、シンドラーの心の声や行動でおかしみを」という意図も込められているそう。絵面としては普通であっても、「(ベートーヴェンの握手が)少しニュルっとしていたけど」といった「本当は言っちゃいけないことが観客にだけ聞こえる」ために笑える、というバランスになっていました。
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ちなみに、冒頭の現代日本のパートは、原作に存在しないバカリズムの脚本によるオリジナル要素です。原作では推論(というよりも結論めいた)記述が初めのほうに書かれており、それはそれでノンフィクション本の構成として正しいと思えるのですが、今作ではおおむね時系列に沿って語られ、その上で終盤に衝撃的な事実と「主観」も提示されるという、劇映画として真っ当な構成になっています。ゆるい会話劇やセリフ回しに限らず、バカリズムの堅実な脚本家としての力も存分に発揮されているのです。
また、べートーヴェンがシンドラーに卵を投げつけるシーンは、原作の「(ベートーヴェンが)家政婦に卵を投げつけ罵倒する」という記述からアレンジされたもの。このあたりの違いや映画化にあたっての工夫を、原作と比べてみるのもいいでしょう。
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余談ですが、原作本の著者のかげはら史帆は文庫版のあとがきで、刊行時に流行していたスラング・俗語を意図的に多用した(それでも古びてきた言葉はいくつか書き改めた)理由について「シンドラーやベートーヴェンやその他の人物たちをできる限りリアルな存在として表現したい」という考えがあったことも語っています。
それにしたってあまりにふざけすぎでは? と賛否が分かれそうなところですが、筆者個人はそれこそを「偉大な人物を卑近な存在として描く」試みとして支持をしたいのです。
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しかも、かげはら史帆は、映画企画の担当者による「演劇やミュージカルでは、日本のキャスト陣が西洋を舞台にした作品を演じるのは当たり前。実写映画でそれをやったっていいと思う」という言葉に対し、「たしかに」と膝を打ち、「私の頭のなかでも、シンドラーやベートーヴェンは日本語でしゃべっているような気がするのです。しかも、古めかしくない、生き生きとした現代の言葉を」と思ったのだとか。