グリム童話の『ラプンツェル(髪長姫)』を原作とした本作は、ディズニー長編アニメの第50作目にして、初めて全面的に3Dを取り入れたディズニープリンセスの映画でもある、記念碑的な作品です。
原作からの大胆なアレンジも魅力的な内容に
『塔の上のラプンツェル』は、原作では王子さまと塔の上にある部屋で逢瀬を重ねるところを、キザでお調子者な泥棒と一緒に冒険する活劇に改変するなど、大胆なアレンジも特徴的です。映像表現も高く評価されており、あっと驚くアクションシーンも見どころ。時には悩み苦しみ塞ぎ込むことがあっても、主体的に行動し成長する主人公像は、後の超大ヒット作『アナと雪の女王』にも通じています。
そんな『塔の上のラプンツェル』の中でも、特に奥深いキャラクターとして語られているのは、マザー・ゴーテルです。客観的には赤ちゃんのラプンツェルを誘拐し、18年も幽閉していた悪人中の悪人ですが、彼女の本質について「ラプンツェルへの愛もあったのでは?」「いいや、彼女は自身の若さを保つための、魔法の力の持つ髪の毛しか求めていない」などと議論されているのです。
ゴーテルの心理は「受け手が自由に解釈できる」ことを前提として、本編中および、関連作品には限りなく答えに近いヒント(あるいは答えそのもの)も描かれていたと思います。そのポイントを5つに絞って紹介しましょう。
ここからは映画本編のネタバレを多分に含むほか、記事後半の警告後には関連作品の一部内容またはネタバレにも触れているのでご注意ください。
※以下より映画『塔の上のラプンツェル』本編のネタバレに触れています。
1:ゴーテルの愛は「髪の毛にだけ」表れているように見える
筆者個人の結論から言ってしまいますが、ゴーテルが愛していたのはやはり魔法の力を持つ髪の毛だけ、そのためにラプンツェル本人を心理的に支配し操っているだけにすぎない、と感じてしまう描写が多いです。その根拠の1つとして、ゴーテルが愛を表現するときは、その愛がラプンツェル本人ではなく、髪の毛へと物理的に向けられているように見えることが挙げられます。
例えば、ラプンツェルが欲しいと願う絵の具のために3日もかかる場所へと行く時、ゴーテルは「ちゃんと1人で待っていられるの?」と聞きつつ抱きしめますが、その時になでているのも、キスをするのも髪の毛なのです。
さらには、「あなたを守るためなのよ」と歌っている場面では、露骨なほどに髪の毛を顔に近づけて、頬でもなでていました。
その後も、ラプンツェルに再会したゴーテルは「反抗と裏切りの匂いがぷんぷんしたの」と言いつつその髪をなでていましたし、「お母さまの言う通りだった」と絶望のままに抱きついてきたラプンツェルに対しても、やはりゴーテルは髪の毛をなでているのです。
2:ユージーンは髪の毛ではなくラプンツェル自身を見ていた
もちろん、それらだけでは「髪の毛だけでなくラプンツェル本人も含めてなでている、愛しているとも言えるのでは?」とも思えますが、その対(つい)となる愛の表現の場面が劇中にはあります。それは、ユージーンと共に湖に浮かぶ小舟の上で、たくさんのランタンの下で「大事な人(原語ではNow that I see you、今私があなたを見ている)」と歌った時……ユージーンはラプンツェルの目に少しだけかかっていた髪の毛をはらって、彼女の目が見えるようにしているのです。
他にも、ゴーテルはラプンツェルのことを「花のようにか弱いんだから(as fragile as a flower)」と歌っています。これは“たとえ”ではなく、文字通り、もともと魔法の力を持つ花であった髪の毛の「代用」のようにラプンツェルを見ているとも解釈できます。
そもそも、ゴーテルは物語の冒頭で城に忍び込んだ時から、ラプンツェルの髪の毛を切っていました。その時に髪の毛を切ると魔法の力が失われてしまったため、仕方がなく赤ちゃんごと連れ帰った、と見える描写にもなっています。
一方で、ユージーンは塔の上の部屋でラプンツェルに縛られた時、魔法の力を持つ髪の毛のことをそもそも知らないこともあって「なんでそんなもの(髪の毛)を欲しがるんだ!」と声を荒げていたこともありました。
髪の毛だけに愛を注いでいるようにも思えるゴーテルと、髪の毛ではなくラプンツェルという「その人」を見ようとしているユージーン……物語の発端や全体的な流れからしても、その違いはかなり大きいと思うのです。