実際に見れば、主演の吉沢亮はもちろん俳優全員を称賛したくなるでしょう。アカデミー賞で3部門を受賞した『Coda コーダ あいのうた』が好きな人にも、積極的に見てほしいと感じることができました。それらの理由を解説していきましょう。
「障がい者の子どもになんてなりたくなかった」心情が積み重なる物語
映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』の最大の特徴で、かつ『Coda コーダ あいのうた』を連想する大きな要素は、やはりろう者の両親を持つ子どもである「コーダ(CODA=Children of Deaf Adults)」を主人公としていることでしょう。映画『Coda コーダ あいのうた』の主人公は手話で家族の通訳をするほか、漁業も手伝っていて、そのおかげで歌のレッスンに遅刻し続けてしまう、いわゆるヤングケアラーの問題も描いた内容でもありました。それも含めて若者の葛藤を描いていることが重要で、下ネタもあけすけに口にする両親の姿からは「障がい者を聖人めいた扱いにしない」という誠実な姿勢を感じ取ることができました。
対して、『ぼくが生きてる、ふたつの世界』の主人公はそうした過剰な責任が押し付けられているわけではなく、(祖父の言動はかなり極端だったりするも)むしろ息子への理解も愛情もたっぷりな両親の姿が描かれています。しかし、それでも、主人公には「障がい者の子どもになんてなりたくなかった」という心情が積み重なってしまいます。
例えば、小学生の頃、友達に「お母さんの話し方が変じゃない?」と言われたことで授業参観のお知らせを内緒にするばかりか、その理由を「お母さんに来てほしくなかったから」と伝えてしまったりします。 それでも彼は基本的には母親を気遣う優しい少年に思えるのですが、中学生になってからは自身の進路や将来に悩んだこともあり、さらに母親を傷つける言葉を投げつけてしまうのです。
子どもの頃、特に思春期に親を疎ましく思ったり、または親の言動を恥ずかしく思ったりして傷つけてしまった、という経験は誰にでもあることでしょう。つまりは、とても普遍的な心情を描いているともいえます。
一方で「普通になれない」という鬱積(うっせき)が積み重なり、それにより言葉で傷つけてしまう様を、コーダではない人にも「ごまかしなく」伝えていて、「間違っているけど、その気持ちも分かる」ことこそが、本作の大きな意義だと思えます。
さらに、主人公は役者の道に進もうとするもうまく行かず、逃げるかのように東京へと出ていきます。
障がい者への差別的な感情がすぐに伝わったり、奇異の目で見られたりすることもある「村社会」とは異なる東京で、彼はようやく「普通になれる」と信じているのですが、そこでの意外な出会いや気付き、さらには仕事で彼が成長していく姿も大きな見どころになっています。それをもって、コンプレックスを克服する物語としても読み取れるでしょう。 過去に母親を深く傷つけてしまった青年が、どのように「ぼくが生きてる、ふたつの世界」の世界を知るのか、そもそも「ふたつの世界」とはどのようなものなのか。原作にも書かれていたその気付きを、映画ならではの演出で示したシーンに、涙する人は多いでしょう。