「あんたのせいで私は!」
おひいさまとの電話の翌日も、祖母は電話をかけてきました。やはり、あれが欲しい、これが欲しいというもの。挙げ句、「骨は勝手にいじらんといて」とまで来た……。母とは生前、「養父と同じところに眠らせて」という約束を交わしていました。娘の幸せをつぶしてでも養父との関係を死守した人です。大阪の祖母の元に行きたいなんて1ミリも思わないでしょう。「骨は、こっちで最後決めるよ。約束もあるから」と言うと、「なんでよ? あんたのせいで私は娘に会う事すらできなかったのに!」……いつか、来る。いつか来る言葉と分かっていたけれど、こんなにも早く来るのか。
自分は欲しい物をトランクケースに詰めて、きょうだいそろって「家の中は“一切”触ってない」とわざわざ、うそまでついて? 娘の顔すら見ずに逃げ帰ったくせに? 考えるより先に、「恥を知れ!」と大きな声で怒鳴り、われに返ると祖母はまた、電話を切っていました。昨晩、おひいさまから言われた、「おばあちゃまとは、縁を切りなさい」という言葉が、何度も何度も頭の中で再生されます。「もうあかん」「もう無理や」とスマホの電話帳を開き、祖母の携帯電話の番号を着信拒否に設定しました。そして私は、祖母を捨てたのです。
その後は火葬、養父の納骨先探し(疎遠だったので、どこに眠っているかすら分からない状況)、司法書士と相続についてのやりとり、週末になると夫と共に物であふれた母の家の片づけ。8月中旬の暑い夏の日、ようやく見つけた養父が眠る霊園に母も納骨しました。私のへその緒と一緒に。
死後も永劫、母たること忘れる勿れ
その思いを込めて。娘として、最後の甘えで、最大の復讐でした。納骨を終え、母の家に戻ると主を失った家はガランと広く、母の生前、私が最後にここへ来た時にはなかった壁いっぱいに飾られた写真に気が付きました。養父と再婚した時の結婚式の写真、養父と2人で撮った写真、幼稚園から小学生までの私の写真が飾られ、私が大人になってから、結婚してからの写真は1枚もありませんでした。10年前に養父を亡くしてから母の心は少しずつ崩壊し、幸せだったころの記憶を“写真”の中にたどることで、どうにか今と過去をつないで自分の均衡を保とうとしていたのかもしれません。母の時間は、もうずっと前に止まっていたのです。
さて、この記事をどう締めようか。書いては消してを繰り返し、椅子の背もたれに体を預け、目を閉じてみます。しばらくすると、幼稚園のころに紙のゴミ袋で作った洋服を「ドレス!」と言いながら着て無邪気に笑う私と、祖母と祖父(祖母の再婚相手)、母の4人ではしゃいだ姿が浮かびました。2人で夜中にこっそり、祖母にばれないように『教師びんびん物語』をクスクス笑い合いながら見たことなど、思い返すのは幼いころの記憶ばかり。あれほど幸せな時間は確かにあったのに……。
そうか。私たち親子はもうずっと、ずっと前から、互いの時間は止まっていたのだと何十年もかけて理解できました。「卑怯者」、母に向けた言葉か、あるいは自身に向けた言葉かも分からぬ言葉を口にした時、開いたパソコンの前で大きな声を上げ泣き崩れることができました。やっと少し、自分と自分の感情を放つことを許せたのです。
私の相続はまだまだ終わりません。あの家を片付けて、売却手続きをして。向こう1年はかかることでしょう。祖母と縁を切るといえども、何かあれば行政から連絡も来ます。これからもまだまだ、私の家族の“呪縛”は続くのでしょう。それでも私の時間は、これからようやく動き出せるのかもしれない。今はそう、素直に思えるのです。
最後に、家の片づけや遺品整理を手伝ってくれた友人たち、いつも道に迷う私を導いてくれるおひいさま、真夏に大量のゴミ捨てを手伝ってくれた近所の皆さまといつもそばにいてくれる夫、業務上で多大な配慮をいただいた編集部へ、心より感謝を申し上げます。