「思春期あるある」の表現
前作の面白さを冒頭で端的に示した上で、今回ははっきりと「思春期」の物語であることが打ち出されています。 物語は前作から2年後、主人公のライリーは13歳となり、高校入学を控えたタイミングで、頭の中では「シンパイ」「イイナー」「ハズカシ」「ダリィ」という4人の新たな感情たちが登場します。将来を心配したり、誰かをうらやましく思ったり、さらには親に反抗的な態度を取ったりする様を、新しい感情それぞれが表現してくれるのです。いわば、これは「思春期あるある」の表現。大人になってみれば……いや、思春期まっただなかの当事者でも「どうしてあんなことを言っちゃったんだろう」と思う不可解な言動や、「なんでこんな気持ちになるんだろう」という不安定な心理状態までをも、「頭の中ではこうなっている」と示すことそのものが面白いのです。 そして、その新たな感情のシンパイたちは「暴走」し、ヨロコビを筆頭とする5人の感情を「追放」してしまいます。そこから巻き起こる「感情の嵐」はどのようなものなのか。この騒動を経て、主人公のライリーはどのように「成長」するのか……そこには前作からさらに「先」を行く、“新たな感動”があったのです。
「私だけじゃない」という気付きの意義
この“新たな感動”の描写には、思春期まっただなかの人に、「こうなるのって私だけじゃないんだ」という気付きを与える、とても大きな意義があります。それは、現実の世界で誰かを表面的に見ているだけでは分からない「内面」の部分を、アニメーションで表現したからこそのものでしょう。 大人は「かつての自分もこうだったかもしれないな」と思いをはせることができますし、親御さんであれば子どもの心情を想像して、よりよい対応を考えるきっかけにもなるでしょう。前作に引き続き、エンターテインメントとして楽しいだけでなく、現実をより良くするためのヒントを与える作品としての「強度」は半端ではないのです。それでいて、その気付きを説教くさいものではなく、やはりエンターテインメントとして提示していて、描写によっては“ギャグ”として昇華されているのも本作のすごいところ。 詳細は伏せておきますが、その思春期特有の恥ずかしさを、とある「驚きの見た目」をしたキャラクターが表現していることに大笑いしつつも納得ができました。ここは、何かの創作物を愛するオタク気質のある人こそ(それを隠そうとした経験もある人も含めて)「分かる!」と膝を打つことでしょう。
また、本作を見て「この感じでシリーズを続けられるじゃん!」と思う人も多いでしょう。例えば「結婚や出産」「中年の危機」など、その後の人生の節目における感情の変化もまた面白く、現実にフィードバックできる学びも得られるだろうと、想像できるからです。