選手生命も危ぶまれた大けが
だが、そんな駒野に予期せぬアクシデントが襲い掛かる。1度目の不運は、プロ3年目の2003年。左膝前十字靭帯断裂という大けがに見舞われたのだ。「同じけがをした先輩がその試合を観ていたんですが、スタンドまで靱帯が切れる音が聞こえたって言われました。病院で診察して、本当に切れていると分かった時は、絶望的な気持ちになりましたね。この先、俺はどうなるんだろう、リハビリをしてももう以前のようにはプレーできないんじゃないかと、不安でたまらなかった」
さらに追い打ちをかけるように、膝の治療中にはエコノミークラス症候群を発症。命の危険にも直面する。当時付き合っていた彼女(のちの妻・映己子さん)が連日のように見舞いに訪れ、献身的に看病をしてくれたが、「追い込まれた状態になっていた」駒野は、そんな彼女にもつらく当たるようになったという。
それでも懸命なリハビリを続け、2004年4月に戦列復帰。同年8月のアテネ五輪代表にも名を連ねるが、しかしその大舞台で今度は鎖骨を骨折してしまう。さらに9月にはブドウ膜炎を発症し、失明の危機にさらされる。
「前十字靭帯が完治まで1年くらいかかりましたから、それに比べたら鎖骨の骨折は1、2カ月で済みましたし、ちっぽけなけがでした(笑)。ただ、ブドウ膜炎は全治までどれくらいかかるか分からず、体を動かすこともできなかったので、不安は大きかったですね」
試練に負けない強いメンタルが育ったわけ
幸い失明のリスクは回避したが、こうして度重なるけがや病気に見舞われても、駒野の心が折れなかったのはなぜか。そのタフなメンタルは、持って生まれた資質なのか。「結局、僕の人生はサッカーしかないんです。それ以外のことは何もできませんから(笑)。けがや病気をして、そのたびに改めてボールを蹴れる喜びが、僕にとってどれだけ大きなものか思い出すことができたんです。サッカーができる日常は、当たり前じゃないんだって」
もちろん、絶望の淵から何度も立ち上がれたのは、プロとして成功し、母親に楽をさせてあげたいという強い気持ちもあったからだ。
「裕福な家庭ではありませんでしたが、そういった環境も僕自身にとっては良かったのかなって思います。自由になんでも手に入るわけではなかったので、そうした中で遊び1つをとってもどうすれば楽しめるか、工夫し、考える力が身に付いた。もちろん、金銭的な余裕がない中で、どうすればプロになれるかも──。自分で言うのもなんですが、この環境があったからこそ、誰よりもストイックにプロを目指せたんだと思います」
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この記事の執筆者:吉田 治良 プロフィール
1967年生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。2000年から約10年にわたって『ワールドサッカーダイジェスト』の編集長を務める。2017年に独立。現在はフリーのライター/編集者。