アスリートの育て方 第9回

「あの時、嫌な予感がした」父の死で進路急転。中3で単身故郷を離れた元日本代表・駒野友一の原動力【独占インタビュー】

連載【アスリートの育て方】。元サッカー日本代表の駒野友一は、父親の死、故郷を離れての寮生活、そして選手生命も危ぶまれた大けがといった幾多の試練を、いかにして乗り越え、トッププレーヤーへと上り詰めたのか。

「プロになって母親に楽を」中3で故郷を離れる

父親が亡くなるのは、有力校やJクラブのスカウトの注目を集め、地元・和歌山県の強豪校、初芝橋本への進学がほぼ決まっていた頃だった。

3歳年上の吉原宏太(コンサドーレ札幌やガンバ大阪で活躍したストライカー)の代が高校サッカー選手権でベスト4に入るなど、全国でも強豪として知られた初芝橋本に進学し、駒野も憧れの選手権を目指すつもりでいたが、経済的な理由から進路の変更を余儀なくされる。

ただ、困難な状況にあっても駒野は前向きだった。
 
「小学5年生の時にJリーグができて、プロになるという明確な目標ができたんです。関西選抜に入ってJクラブのユースからも興味を持ってもらえるようになりましたし、幸い選択肢は少なくありませんでした。プロになって母親に楽をさせたい。そう考えて進路を決めました」
 
選んだのは、サンフレッチェ広島のユースだった。全寮制で金銭面の負担はあったが、アンダー世代の代表に入るなどすれば、寮費は軽減される。「自分の頑張り次第で負担は減らせる」と、中学3年の3学期を迎えるタイミングで単身広島へと旅立つ決意を固めたのだ。

「きょうだいの中で僕が初めて親元を離れたので、母親も寂しさはあったと思います。それでも僕の決断を尊重し、何も言わずに背中を押してくれました」

サッカーだけの高校3年間「同級生に差をつけないとプロにはなれない」

亡くなった父も、そして女手1つで3人の子どもを育てた母親も、しつけには厳しくなく、やりたいことを自由にやらせてくれたという。広島行きも駒野自身が決めたが、とはいえまだ15歳の少年である。広島での寮生活には、当初なかなかなじめなかった。
 
「知らない土地で、知らない人たちに囲まれて初めての寮生活ですからね。1年目の夏くらいまでは不安も大きかったし、とにかく地元が恋しかった。なにより広島の高校(広島県立吉田高校)を受験するために、中3の3学期に転校したので、地元の友達と一緒に卒業できなかったのが悲しかった。地元の中学の卒業式には行けたんですが、僕は保護者席にしか座れなかったんです」
 
ふとした瞬間に湧き上がる不安や寂しさを、駒野はひたすらサッカーに打ち込むことで振り払う。普段の練習に誰よりも真剣に向き合うのはもちろん、休日に同級生たちが街に遊びに出掛けている間も、部屋で海外サッカーのビデオを観たり、寮の周りを1人でランニングしたりしていたという。
 
「そういったところで同級生に差をつけないと、プロにはなれないと思っていましたし、なんのためにサンフレッチェに来たのかを、常に考えながら行動していました。遊びたい盛りではありましたが、何かを犠牲にしなくては夢はかなえられない。何も言わずに自分を送り出してくれた母親のためにも、高校3年間はとにかくサッカーだけに集中して取り組みました」

プロ1年目から始めた、親への恩返し

そうした努力が実り、高校1年生の夏以降には3年生が中心のAチームにも徐々に関われるようになっていく。そして3年時には同期の森崎和幸・浩司兄弟とともに、サンフレッチェの2種登録選手(Jクラブの18歳以下の選手で構成されるチームに所属しながら、Jリーグの公式戦に出場することを認められた選手)になるのだ。
 
2000年に念願のプロ契約を果たすと、翌2001年には早くも右サイドバックのレギュラーポジションを勝ち取る。そして、夢を実現した駒野はプロ1年目から、「少しでも親に恩返しがしたかった」と実家への仕送りを欠かさず、大学に進んだ弟の学費も用立てた。
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プロ3年目の不運
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