本作はさまざまな動物が住む理想郷・ズートピアで起こる事件を通じて、差別と偏見にまつわる寓話(ぐうわ)を鋭く深く描いた作品。世界最高レベルのアニメのクオリティ、キャラクターの愛らしさ、キレ味抜群のギャグ、バディーものとしての面白さに至るまで、2016年の公開当時から絶賛を浴びました。
そして、細かいところまで作り込まれているからこそ、何度見ても新しい発見がある作品でもあります。ここでは、劇中で説明されなくても、現実の世界に通ずる問題がはっきりと表れているポイントを、本編のネタバレありで解説・考察していきましょう。
※以下、『ズートピア』本編のネタバレに触れています。
1:警察署内では多様性の配慮が行き届いてない?
本作の革新性の1つは、多様性の素晴らしさを言葉による説明ではなく、目で見える形で示していること。例えば、ウサギのジュディがズートピアにやってきたその時から、駅には水中から陸に上がったカバの服の水を乾かす仕掛け、キリンの首の長さに合わせた飲み物の提供がされるなど、特徴も大きさもさまざまな動物それぞれのことを考えて構築された世界が、そこに「ある」のです。
しかしながら、その多様性に配慮しきれていない場所があります。それは警察署内。椅子はどれも明らかに大きい動物向けのサイズであり、ジュディはそこによじ登った上に、立ったまま朝礼を聞かなければなりませんでした。
本編では使用されなかった未公開シーンでは、ジュディが(彼女からすれば巨大な)キーボードの上を歩いたりジャンプをしたりしながら文字を打ち込む場面もありました。
ジュディはウサギ初の警官であり、だからこそ警察署内では小さい動物向けの設備が整えられていなかったともいえます。そもそも受付からして机が高いために、ジュディがチーターのクロウハウザーから気づかれなかった場面もあり、外部からの来客の配慮すら行き届いていなかったのではないでしょうか。
一方で、その後のヌーディストの集まりの扉をよく見ると、大きい動物と小さい動物それぞれに合わせた取っ手および扉に分かれており、やはり「アクセシビリティ」に配慮されていることが分かります。こうしたところで「ズートピアは多様性の素晴らしさを示した理想郷」であると同時に「まだまだ過渡期」でもあると示されていると思うのです。
2:「見た目と事実で判断する」ジュディの危うさ
もう1つ、『ズートピア』の大きな革新性は、誰もが偏見や差別を持ちうる、さらに広める側にもなり得てしまうと明確に示したことでしょう。ジュディは「肉食動物だけが凶暴化する」とマスコミに告げたことで、ズートピアには分断が起こってしまうのですから。そのジュディは、出発の日に父親からの「キツネは特にタチが悪い」といった忠告に対して、ジュディは「キツネは関係ない、イジワルなウサギだっていっぱいいる」などと返していたことから分かる通り、種族で判断しない考えを持っていたはずでした。しかし、そのジュディが実は「見た目で短絡的に判断していた」こともつぶさに描かれていることにも気付かされます。
例えば、ジュディはレンジでチンした「おひとりさまにんじん」の中身の小ささにがっかりして食べずにゴミ箱に捨ててしまいます(一方で、相棒となるキツネのニックは「ネズミ用のサイズのプリン」をスプーンで丁寧にすくって食べて笑顔になっていました)。ほかにも、ジュディはつぎつぎに出てくるシロクマたちを「あれがミスター・ビッグね!」と名前から決めつけていたこともありました(実際のミスター・ビッグは小さなネズミでした)。
とはいえ、その見た目や印象に注目して、はっきりと口にしたり態度で示すこと自体が悪いわけでもないことも示されています。ジュディは転がったドーナツをキャッチして助けたネズミのお嬢さんに「髪形、すてきです」とすぐに褒めたこともありましたし、その恩義があったからこそミスター・ビッグに氷漬けにされることから逃れられました(その時にもジュディは「そのドレスすてき」と褒めました)(ラストでもニックに素直に「大好き」だと認めていました)。
はたまた、ジュディはアフリカスイギュウのボゴ所長に「カビの生えたタマネギを取り返したのは立派だがな」と言われたとき、それがタマネギではなく「ミドニカンパム・ホリシシアス」という名前のクロッカスの一種であると告げていました。
無知であるがゆえに差別や偏見に染まってしまうだけでなく、ジュディのように正義心にあふれ、客観的な見た目や、はたまた経験に基づく知識から判断できる人物でも……いや、だからこそ、間違った見識をも「正しい」と信じて外部にアウトプットして差別や偏見を広めてしまう危険性がある、というのも現実にもある問題の本質でしょう。