厳格な母が説いた「真っ赤なバラであれ」という教え。営業マンの父から学んだ「まず相手を尊重する」対人術。そして、意外なストレス発散法である「ハードロック」。
批判を浴びてもハイヒールとイヤリングを「戦闘服」として譲らなかった彼女の強さは、どこから来たのか。
いま語られることの少ない“原点”を、大下英治氏の著書『高市早苗 愛国とロック』(飛鳥新社)より一部抜粋して紹介する。
真っ赤なバラであれ
高市早苗は、昭和36年(1961年)3月7日に生まれた。奈良県奈良市で幼稚園を卒園し、奈良市の小学校に入学。実家の転居で橿原(かしはら)市の小学校に転校した後、橿原市立畝傍(うねび)中学、奈良県立畝傍高等学校を卒業。その後、神戸大学経営学部経営学科へ進学する。
父・大休(だいきゅう)は彼女を溺愛した。トヨタ系列の機械メーカーに勤務する大休は、西日本全域を統括する大阪営業所長として勤務。行動力に長け、取引先でひとたびトラブルがあると直ちに駆けつけた。真夜中に自ら車を運転し島根まで飛ばしたこともある。
「お父さんは責任感が強い」
高市は誇りに感じていた。
「まず相手を褒めろ」
それが営業マンである父の口癖だった。自分の意見を言う前に相手の言い分を聞き、それを理解し、いいところを尊重する。その上で自分の考えを伝える。こうした相手の心を傷つけない配慮がいかに大切か、いつも娘に言い聞かせた。
母・和子(かずこ)は、奈良県警で勤務していた。
育児や祖父の看病をしながらも、重大事件発生時にはどんな時間でも現場へ向かい、ときには深夜に帰宅する。朝には家事を完璧に片付けて、家族の弁当を作った。
仕事にも家事にも全力投球。職場には誰よりも早く出勤。上司や同僚のデスクを拭き、花を生ける。それが彼女のプライドだった。
高市の弟・知嗣(ともつぐ)が生まれる前には、臨月のお腹で容疑者を追い全力疾走していたことは署で伝説化していた。
高市の胸には、幼い頃から母に言い聞かされた思考や行動の指針が胸に刻まれている。
1. 他人様(ひとさま)に迷惑をかけることは絶対にしない。
2. 職業に貴賤(きせん)はない。汗水を垂らして真面目に働くことこそ尊い。
3. 陰で他人の悪口を言わない。相手の気持ちを慮り直接本人に伝える。
4. ご先祖様に感謝する。
高市は和子から「真っ赤なバラのようであれ」とも言われた。
「男性と互角にやろうと肩肘張らずに、常に女性らしい華やかさを失わないようにしなさい。ただし、間違ったことには毅然と立ち向かうトゲも持ち続けなさい」
そう説明を受けた。華やかだけどトゲを持つバラを高市は意識した。
議員になって間もないころ、高市は選挙区で活動中にハイヒール姿を批判された。当時女性候補者は地味な服装での活動を求められていたのだ。
しかし、譲らなかった。イヤリングもたびたび批判された。それも譲らなかった。女性らしさを失いたくはなかったのだ。
ハイヒールもイヤリングも高市にとっては戦闘服の一部なのだ。
選挙で個人攻撃はしない理由
母・和子の教えもあり、高市は政治家になってから、選挙では個人攻撃をしないことを身上としている。選挙運動では対立候補の批判をせず、自分の政策を理路整然と訴えるスタイルを貫く。「要領が悪い」
後援者たちに指摘されることもある。しかし、自分のスタイルを誇りに思っている。
服装も性格も真っ赤なバラにはほど遠いと自覚しているが、亡き母を働く女性の先輩としてリスペクトし、数々の教えをかみしめ、感謝している。
母親が永眠したのは平成30年。享年(きょうねん)86。最期まで高市は褒められた記憶がない。
国会議員になってからも、顔を合わせるたびに𠮟られた。閣僚になると、めったに奈良には帰れなかった。それでもなんとか時間をつくり帰省する。
晩年の母は要介護状態になっていた。高市は議員活動の合間を縫い、平日夜の最終の新幹線で奈良に帰り、翌朝一便で上京することもあった。そんなときでも、母の説教の洗礼を受ける。
いくつになっても口答えは許されない。母の𠮟責に高市が言い返そうものなら、平手打ちされた。蹴りが飛んでくることも珍しくなかった。
国会議員が高齢の母親にビンタされ、蹴りを浴びせられる姿を想像してほしい。なかなかすさまじい光景だ。
弟の知嗣は、母の覚えがいい。概して母親は息子をかわいがる。だから、たびたび電話で会話をしていたらしい。
しかし、高市は母への電話は気が重かった。晩年の母は車椅子での生活だったが、口は達者だ。必ず説教された。
「お母さん、寂しがっていたよ」
母親が亡くなったあと、お参りに来た母の友だちから言われることがあった。にわかには信じられなかった。
今になると、もっと電話で話しておけばよかったと、高市は悔やんでいる。



