「弁証法」「現実原則」の高畑監督だからこその作品になっている
今回の地上波放送の前に、「金曜ロードショー」の公式Xの「描く命の輝き、生きる喜び」という文言に対して、「そういう映画ではない」「その逆では?」などと批判が寄せられていました。 フォローをしておくと、前半部はかぐや姫が野や山を駆け楽しそうに暮らしている描写もあるため、文言自体は間違っているものとは思えません。しかも、最後にかぐや姫が告げたのは「喜びも悲しみも、この地に生きるものは、みんな彩りに満ちて、鳥、虫、獣、草、木、花、人の情けを……」という、やはり地上の素晴らしさを訴える言葉なのですから。それでもこの文言に違和感を覚える人が多いのは、かぐや姫が嫌悪感を超えて、この地上で生きることそのものに絶望を覚えたと言える、シビアで残酷な終盤の展開があるからでしょう。
確かに、高畑監督作品は価値観を対照的に描写することがよくあります。『平成狸合戦ぽんぽこ』の人間とたぬきの争い、『おもひでぽろぽろ』の都会と田舎での暮らし、『火垂るの墓』の戦争の全体主義と兄の独善的な行動、『かぐや姫の物語』の望まない生き方をするかぐや姫と一方的に求婚をしてくる男たち、といったように。
だからこそ、そのような厳しい現実で生きる人々にもエールを送っている、優しい作家とも言えるのです。
この文言に則れば、『かぐや姫の物語』で、かぐや姫の本当の願いをかなえたりはしない、結局は月に帰るという結末は、やはり現実原則の高畑監督らしいものだと納得できます。高畑さんの脚本の作り方というのは、よく快楽原則と現実原則という話をするんですけど、「宮さん(宮崎駿監督)の映画は快楽原則でできてる」と。つまり、お客さんが「こうあって欲しい」と願うものを実現していくことが、物語の動力になっているものです。その例が『千と千尋の神隠し』のエンディング。「この豚の中にお父さんとお母さんはいない」と千尋が正解を言うことを観客は願っているから、それを実現してあげる。「この子に見つけて欲しい」という願いを叶えるのが快楽原則。でも実際は見つけられないのが現実。高畑さんはその現実の方を作っている。かぐや姫がワガママに見えるとしたら、平安時代の慣習を知らない月から来た女の子、つまり現代の女の子みたいな何も知らない子が平安時代の現実にぶち当たった時に、どう反応するかということを現実的に描いているからです。
『ジブリの教科書19 かぐや姫の物語』 より
しかし、その月は高畑監督の言うように「清浄無垢で悩みや苦しみがないかもしれないけれど、豊かな色彩も満ちあふれる生命もない」場所なのです。そのような場所よりも、悩みや苦しみのある地上のほうがいいのではないか。しかし、女性の抑圧や男性の加害性はその生きる喜びを全て打ち壊すほどに過酷なものではないか……。
そのように、やはり高畑監督の作品は弁証法ならではの、どちらかの価値観が絶対ではないという、受け手に能動的に考えさせる作品になっているのです。
だからこそ、「姫の犯した罪と罰。」という、「断定」をさせるようなコピーは、高畑監督にとっては「野暮」に思えるものだったのかもしれませんね。



