「感情移入できる物語にする」狙いは「無理難題」のシーンからも分かる
では、出来上がった『かぐや姫の物語』で高畑監督はその罪と罰よりも、何を描きたかったのかでしょうか。それは以下の高畑監督の言葉に集約されています。「"罪”だの"昔の契り"だの」という言葉からは、やはり高畑監督の「そこは主題ではない」という意思表示を感じます。そして、「感情移入さえできる、ほんとうの"物語”を物語れる」ことこそが、高畑監督の狙いだったのです(しかも、それは五十数年前にも考えたことがある)。『竹取物語』には描かれていないウラがあって、それを解明すれば、原作の筋立てをほとんど変えないまま、かぐや姫に感情移入さえできる、ほんとうの"物語”を物語れるのではないか、というのがこの企画なんです。それは、かぐや姫が"罪”だの"昔の契り"だののために地上におろされた、という原作の言葉から、「なぜ、何のために、かぐや姫は地上にやってきたのか」を読み解けばよい。実は僕は五十数年前、それがぱっと読み解けた気がしたんです。
そのヒントは月と地球の違いです。原作に書いてあるとおり、月は清浄無垢で悩みや苦しみがないかもしれないけれど、豊かな色彩も満ちあふれる生命もない。もしもかぐや姫が、月で、地上の鳥虫けもの草木花、それから水のことを知ったら、そして人の喜怒哀楽や愛の不思議さに感づいたら、地球に憧れて、行ってそこで生きてみたくなるのは当然じゃないかと。
『ジブリの教科書19 かぐや姫の物語』 より
しかし、この『かぐや姫の物語』では、貴公子たちの「ものの例え」を聞いたかぐや姫が、「その得難い宝を私にお持ちください。その方と私は結婚します」と返答しています。つまり、原作にあった無理難題が「結婚をしたくないがための口実」に変わっているのです。
しかも、その無理難題を与えた貴公子の1人は、命を落としてしまいます。「自分のせいで死んでしまった」という苦悩はどれほどのものなのか……彼女の嫌悪感は、ここで「自分自身」にも向けられてしまったとも言えるでしょう。
女性の抑圧や男性からの加害性をはっきりと描いている
さらに、そのかぐや姫の嫌悪感が極に達した、それどころか「月に帰りたい」と本気で願うことになったのは、御門から後ろから急に抱きしめられ、あまつさえ「私がこうすることで喜ばぬ女はいなかった」と言われた場面でした。 そのかぐや姫には、捨丸兄ちゃんと一緒になるという「違った生き方ができた」可能性もありました。しかし、結局は自分を押し殺すように宮中の掟に従っていくしかなく、現代では性犯罪と断言できること(平安時代では当然のように行われていたであろうこと)までもが強要されていたのです。そもそも「望まない結婚を至上の喜びだと勝手に言われてしまう」どころか「生き方を強制されてしまう」のは、現代にも残念ながら存在する、悪しき男性優位の風習そのものです。それを持って、本作はかぐや姫を1人の感情移入がしやすい女性として描くと同時に、女性の抑圧や男性からの加害性をはっきりと描いているからこそ、フェミニズムの精神もはっきりと表れている作品になっています。
同時に、「貴公子の死こそがかぐや姫の罪だった」「望まない生き方をすることが彼女への罰だった」という解釈も可能でしょう。しかしながら、やはり高畑監督の意向および本編の内容を思えば、その罪と罰はあくまでテーマを描くための「前提」にすぎず、究極的には重要ではない、やはりかぐや姫を「女性としての苦しみを背負った存在として描く」ことこそが重要だったと思えるのです。



