「若者に人気のジャンルなのは分かっているけど、現実に苦しんでいる人もいる病気を、“泣ける手段”として安易に扱っているのではないか」と疑う人もいるでしょうし、実際の本編を見るとまさにその不誠実さを感じてしまう作品が、過去にあったことも事実です。
しかし、余命宣告ものの映画には、もちろん優れた作品もたくさんあります。事実、筆者は見る前の印象で「どうせ“お涙ちょうだい”なんでしょう?」とたかをくくってしまったものの、作り手のコメントを見ると「これはそういう映画じゃないぞ」と思い直し、さらに本編を見ると「本当にいい作品でした!疑ってごめんなさい!」と謝りたくなった映画があるのです。
ここでは、その直近の2本、Netflixで6月27日より配信中の『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』と、6月14日より劇場公開中の『ディア・ファミリー』を中心に紹介しましょう。どちらも「泣ける」ことよりも、「誠実な」「面白い」作品になっていることを推したいのです。
『よめぼく』は「献身的な愛情」を示す「明るい」内容に
同名小説を映画化した『余命一年の僕が、余命半年の君と出会った話。』、通称『よめぼく』のタイトルを見て、筆者は短絡的に「余命をダブルで設定して2倍泣かせようとする安易な算段だな」と思ってしまいました(本当にごめんなさい)。
しかしながら、三木孝浩監督と、春名慶プロデューサーが寄せたコメントを見ると、「少なくとも“死んじゃってかわいそう”な安易な内容ではないな」と、襟を正すことができたのです。
三木孝浩監督 コメント
この作品は命の短さ、儚さを悲しむのではなく、たとえ一瞬でも誰かを心から想えたことそのものが愛おしく、恋の痛み苦しみさえも生きた証として人生の輝きになることを感じられるような物語として描きました。素敵なキャストの皆さんが全身全霊で想いを注いだこの作品を観て、少しでも多くの方が胸焦がしていただけたら嬉しいです。
これらの言葉通り、本作は余命が宣告されたことの「悲しさ」ばかりをクローズアップしておらず、2人の主人公の「献身的な愛情」が主題といっていい内容でした。劇中にはクスッと笑えるシーンもあり、死の悲しさで泣かせようとするウェットな演出や作劇も抑えめで、実は「明るい」内容でもあったのです。プロデュース 春名慶 コメント
ふたつの命が喪われる物語ですが、悲しい結末は用意していません。残された時間を惜しげもなく、相手のために費やす秋人と春奈。最後の命を燃やし、溶け合っていく姿は誰よりも輝いています。この映画を通じて、当たり前だけどかけがえのない日常の尊さがどうか世界に伝わりますように。
『よめぼく』の先が気になる面白さ
興味を引くのは、「余命1年の主人公が、余命半年のヒロインに自身の病気のことは内緒にしている」「主人公は苦しんで死ぬより前に“楽に死にたい”とさえ思うが、ヒロインはむしろ天国に行くことを“楽しみ”とさえ言う」とことです。始まりから言葉だけに頼らず、その対比構造を病院の屋上の画(え)で見せているのも秀逸でした。
さらに、「いつ主人公が自分も余命わずかだと打ち明けるのか」「なぜヒロインは死ぬことを楽しみだと言うのか」が物語のフックとなり先が気になります。その謎が少しずつ明かされる過程、花言葉の意味、そして終盤のサプライズなど、エンタメ性を高める工夫の数々に感心しますし、隠された切ない思いにも胸を打たれるのです。
『よめぼく』の「同志」である2人の希望の物語
劇中で主人公はヒロインのことを「同志」と呼んでいます。(余命わずかでも)死に対する認識は正反対なのに、そう思える理由の1つは、2人ともが「絵」に対するひたむきな思いを持っているから。それでいて、病床に伏せって外出がほとんどできないヒロインのために、主人公が奔走する様もとても感情移入しやすく応援できるものでした。
しかも、主たるメッセージは前述した作り手のコメントにもある通り、「恋の痛み苦しみさえも生きた証として人生の輝きになる」や「当たり前だけどかけがえのない日常の尊さ」です。同じ目的や趣味を持つ人を「同志」と思い、その人に献身的に尽くそうとすることもそうですが、これらもまた余命を宣告された人に限っていない学びであり、希望でもあるしょう。
劇中で「悪運引き当てる天才」「陰キャ」などとなじられながらも、優しさでいっぱいなことが伝わる永瀬廉、明るい振る舞いから決して小さくはない内面の悲しさを伺わせる出口夏希、そんな2人の親友(悪友?)でツンデレ気質な横田真悠など、若手キャストの輝きもまたまぶしく尊いものがあります。
悲しい涙を流すのではなく、見た後は少し元気になれる、はたまた大切にしていた人のことを思い出したりもできる。そんな素朴ともいえる、確かな感動のある作品に、『よめぼく』は仕上がっていたのです。