いまでは気鋭の教育ジャーナリストとして知られる、おおたとしまさ氏が、プライベートでは新米パパであり、仕事では駆け出しのフリーライターだった約15年前にAll Aboutで綴っていた子育てエッセイ連載「パパはチビのヒーローだ!」が、このたび『人生で大切なことは、ほぼほぼ子どもが教えてくれた。』(集英社文庫)という文庫になった。
刊行を記念して、文庫に収録されている約60本のエッセイのうち11本を厳選して連載する。All Aboutのかつての人気連載が15年ぶりの復活だ。
教育ジャーナリストが自戒の念を込めておくる現役パパへのメッセージ
【第10回】ライフスタイルは自由自在!
いつも家族の存在を近くに感じながら働けることには、とてつもない安心感があります。特に子どもが小さいころには。一方で、在宅勤務なら子どもの世話をしながら仕事ができるだろというのは間違いです。在宅勤務者は保育の必要性を認められず、保育園に預けにくいともいわれていますが、まったくナンセンスです。たとえ自宅でできる業務であったとしても、近くに幼い子どもがいたら、まるで仕事になりません。そんな環境でも無理に仕事をしようとすると、悪気なく邪魔をする子どものことが憎たらしく思えてきて、本末転倒になります(コロナ禍のリモートワークで多くのひとが経験したと思います)。
当然ながら、誰もが在宅勤務できるわけではありません。さらに、夜中のお仕事もあるでしょうし、週末のお仕事もあるでしょうし、単身赴任というケースもあるでしょう。また、観光業をしていれば、夏休みに家族旅行なんてできませんよね。
でもそういう親子には、だからこそ育まれる親子のかたちがあるのだと思います。理想の家族像に自分たちを当てはめるのではなく、自分たちのライフスタイルだからこそできる楽しくてしあわせな親子のかたちを模索することにこそ、「世界に一つだけの家族」の醍醐味があるのでしょう。
仕事と育児の両立は、子育て世代の最大のテーマです。でも考えてみてください。動物だって植物だって、その一生は、次世代に命をつなぐために最適化されています。それが生物としての宿命です。次世代に命をつなぐために、日々の糧を求めてさまようのが、仕事です。仕事は手段であって目的ではありません。
それなのに、現在の社会では、育児よりも仕事のほうが上等な営みであるかのような錯覚が横行しています。育児は仕事の合間を縫って行うべきことであるかのように、多くのひとが思い込まされています。本末転倒です。その不自然さに、社会はもっと自覚的になる必要があると思います。
たとえば、私が新米パパ時代、こんなことがありました……。以下、約15年前の連載に掲載されていたエピソードです。
チビで脳トレ(チビ5歳・ヒメ2歳、15年前当時)
チビの幼稚園でもカードゲームが流行っている。
チビも一応カードをもっているけれど、どうも遊び方をよくわかっていないみたい。
「パパ、ポケモンカードで遊ぼう!」と言うものの、「いっせいのーせ!」でそれぞれカードを出して、ヒットポイントの高いほうが勝ちという退屈な遊び方。
「パパ、ウルトラマンカードで遊ぼう!」と言っても、カードのはしについているグー、チョキ、パーのマークでじゃんけんをするだけ。
ウルトラマンキングがザコ怪獣に負けちゃったりする。
「パパ、仮面ライダーカード!」
……もう、飽きたよ。
そこで、僕はひらめいた。
仮面ライダーカードはトランプを兼ねている。
「チビ、神経衰弱を教えてあげる」
「シンケイスイジャク?」
「こうやって全部裏返して……」
「それじゃ、どれがどれだかわからないじゃん!」
「それを当てるゲームだよ!」
チビの目が輝く。
最初の数回こそ、要領を得なかったチビだけど、そこは子どものやわらか頭。すぐにコツをつかんで僕を負かすようになった。
僕は100円ショップで本物のトランプを買ってチビにプレゼントした。
それから、チビはどこへ行くにもそれを持ち歩き、シンケイスイジャクの勝負を挑む。
僕の実家では、ひいおばあちゃんとシンケイスイジャク。
チビのほうが圧倒的に強い。
ひいおばあちゃんもムキになって頑張るから老化防止に良さそうだ。
チビがひいおばあちゃんの相手をしてくれるから、実家でのチビの株は上がった。
「チビが遊んでくれるから、ばあちゃんの相手をしなくてすんで助かったわ」と、おばさんからメールが届く。
子どもの相手も疲れるけど、お年寄りの相手というのも結構大変。でも、子どもとお年寄りのコンビはお互いに楽しそうにいつまでも遊んでいる。
昔はそうだったんだろうな。三世代同居は当たり前。父ちゃん、母ちゃんがせっせと畑仕事している間、子どもたちは、じいちゃん、ばあちゃんから遊びを教えてもらっていた。
じいちゃん、ばあちゃんたちにとっても、子どもたちとの遊びは、脳を刺激するいいエクササイズだったに違いない。
ずいずいずっころばし、おてだま、あやとり……。
手遊びやことば遊びを通しての世代を超えたコミュニケーションは、実はお年寄りと子どもの共生のしくみだったんじゃないか。クマノミとイソギンチャクみたいな。
核家族化が進んだことで、子どもが育つ環境から多くの登場人物が消えた。一方で、じいちゃん、ばあちゃんたちの傍らからも子どもたちの姿が消えた。
人生の最初と最後に、いるべきパートナーがいない。お互いに支え合っていた二つの世代が分断されたのだ。
遊び相手のいない子どもたちはゲーム機で遊ぶ。老化防止にと、いまやお年寄りもゲーム機で脳トレする。
人生の最初と最後をゲーム機に任せてしまっていいのだろうか。
育児環境問題と、老人介護問題。一見、別々に思える二つの問題は、実は根っこでつながっている。
ニッポンの誰もが“自分”の“いま”しか見ていなかった時代、バブル期。「親と同居なんてまっぴらごめん」なんてことが当たり前のように言われていた。「DINKS(子どもなしの共働き世帯)」なるライフスタイルももてはやされた。
そんな風潮も、いま、少しずつ変わってきている。夫婦で育児を楽しみ、じぃじ、ばぁばとも近い距離を保つ家族が増えている。価値観が変わってきたわけではなく、当たり前の状態に戻ってきたのだと思う。
おじいちゃん、おばあちゃんの教育力って想像以上のものがあるんじゃないかと、いま私は思っています。
生育環境に、おじいちゃん、おばあちゃんの存在感が圧倒的に足りなかったことは、チビにもヒメにも申し訳なかったなと思っています。
教育ジャーナリスト。「こどもが“パパ〜!”っていつでも抱きついてくれる期間なんてほんの数年。いま、こどもと一緒にいられなかったら一生後悔する」と株式会社リクルートを脱サラ。独立後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を務め、現在は、子育て、教育、受験、進学、家族のパートナーシップなどについて、取材・執筆・講演活動を行う。『勇者たちの中学受験』『ルポ名門校』『不登校でも学べる』など著書は約80冊。