今も忘れられない息子の言葉
元自閉症児の息子を立派に育ててきた理系母さんだが、「私は、いわゆる『できた親』では決してありません。子どもに対して余計なこともたくさん言ってきましたし、子どもとの関係が悪かった時期もあります」と振り返る。息子が小学校6年生のときのできごとが、今も忘れられないという。
「交流級で授業を受けていたとき忘れ物があまりに多かったので、支援級の先生があえて『忘れ物をしたら交流級の授業には行けない』というルールを作ってくれたのですが、かえってプレッシャーになり荒れるようになりました。『僕なんて死んだほうがいいんだ』と言うようになり心配でしたが、仕事が忙しく、あまり構ってあげられませんでした。
ある日、息子が家で暴れたときに限界を感じ、『もう、あなたのお母さんをやめたい』と言ってしまって。そしたら息子が突然泣き出して『お母さんは、僕がダメなことをして怒ったりしても、僕のことが大事で好きなんだ!』と言ったんです。
小さいときから『あなたのことが大事で好きだから怒ってるんだからね!』と口癖のように言っていたのですが、無反応だったし、どうせ意味も理解していないんだろうな、と思っていました。でも、本人は分かっていたのだと知ってハッとしましたね」
「10年あれば、なんとかなる」という思いで
わが子の発達に偏りや遅れがあると、親はどうしても焦ったり、ちょっとしたことに一喜一憂することが多くなる。しかし理系母さんは「長い目で見る」ことを意識してきた。「たとえ周囲の子と比べて2〜3周遅れたとしても、最終的にできるようになればいい、と思って子育てをしてきました。小学校で支援級に入るときも『これから10年かけて取り組んでいけば、今はできないことや苦手なことだって、きっとできるようになるはず』というマインドでした。
視野が狭くて危なっかしかったので、小学校の6年間は登校の付き添いをしていましたし、息子が本当の意味で他人とコミュニケーションが取れるようになったのは中学生になってからです。
わが子が自閉症だと知った当時は、まるで『成長できない子』という烙印(らくいん)を押されたような気がして『もうこの子はこれ以上話せず、コミュニケーションも取れないままなのか』と、本当にショックを受けました。でもそんなことはなく、息子は驚くほど成長してくれました。あんなに不安になる必要はなかったと強く思います」
誰がなんと言おうと、わが子の能力を信じ続ける。周りとわが子を比べず「この子には無理だ」と決めつけない。苦手なことが多くても、気長に考えて導いていく。どれも、決して簡単にできることではないだろう。
筆者もそうだが、自分の子に発達障害があると診断された親がめげそうになる瞬間は何度もあるし、落ち込んだり心配になることも多い。しかし、子どもにはみな可能性があり、必ず成長の余地があることを忘れてはいけないのだと、理系母さん親子に教えられた気がした。
>前編:わが子は「元自閉症」。理系研究職の母が、子どもの“自閉症診断が外れる”までにやったこと
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