オリックス史上最強の「陽キャラ」パンチ佐藤とは?

パンチ佐藤
ドラフトの伝説の会見から、球史を変えた登録名変更まで。記憶に残る名バイプレーヤー、佐藤和弘

開幕から2力月が経過した今季のプロ野球。パ・リーグでは首位をソフトバンクとロッテが争うだけでなく、首位から4位までが3.5ゲーム以内という超大混戦となっていますが……その中で蚊帳の外となってしまったのがオリックス。開幕から調子が上がらなかったことで最下位を独走し、ついに8月20日には監督の西村徳文がシーズン途中で辞任するというまさかの事態が起きました。

オリックスは毎年のようにBクラスに甘んじていて、最後にAクラス入りしたのは2014年のこと。それだけに地味なイメージが拭えませんが……そんなオリックスにも球界を代表する超がつくほど明るいキャラクターを持つ選手がいました。それこそが「パンチ」の愛称で親しまれた佐藤和弘です。

現役生活はわずか5年、シーズン最多出場は46試合というようにお世辞にも野球選手として大成したとは言い難い成績しか残していませんが、佐藤の当時の知名度は全国レベル。数々の名言とエピソードとともに、パンチ佐藤の「濃すぎる」現役生活を振り返ってみましょう。
 

パンチパーマは大学時代からのトレードマークに

佐藤和弘が野球に興味を持つきっかけとなったのはアニメ「巨人の星」でした。佐藤家は両親が共働きだったため、佐藤は毎晩のように自宅前で素振りを繰り返し、いつしか少年野球でも4番を打つように。中学からは野手に転向しましたが、自慢の強打を武器に活躍し、高校進学の時期を迎えることになりました。

神奈川県出身の佐藤にとって、当時の憧れは東海大相模のスラッガー、原辰徳。それだけに東海大相模への進学を熱望しましたが、残念ながら偏差値が足りず、武相高校へ進学します。

最近では全国大会に出場することが少なくなりましたが、当時の神奈川の高校野球界において武相高校はダークホースともいうべきポジションを担う強豪校。そんな強いチームにおいて佐藤は1年生の秋からベンチ入りを果たし、2年生からは3番打者を務めるように。

それだけも佐藤の実力はうかがい知れますが、残念ながら武相高校は佐藤在籍時の3年間、甲子園とは無縁でした。そして、卒業とともに佐藤は亜細亜大学へと進学します。

亜細亜大学では阿波野秀幸が同期、さらに与田剛が1学年下に在籍するという強力な投手陣を軸に活躍。佐藤自身もリーグ戦で通算86試合に出場し、ベストナインを3度獲得しました。

ちなみに佐藤のニックネームの由来となったパンチパーマはこの頃から。というのも高校時代は坊主頭で通していた佐藤ですが、くりくりとした目がトレードマークの佐藤は坊主頭だと年齢よりも若く見えました。そのため相手チームの年下の選手からも敬語を使われることがなかったといいます。

「後輩(それも敵チームの)相手にナメられないために」という思いから、ヘアースタイルを当時の野球選手の定番だったパンチパーマに変えました。結果的にこれが佐藤の代名詞となりました。

大学を卒業した後、佐藤は社会人野球の名門である熊谷組へ入社。俊足強打の選手として名を馳せて、社会人野球最大の大会である都市対抗野球大会では史上2人目となるサイクルヒットを達成。在籍2年とも外野手部門のベストナインに選出されるなど、社会人野球界のエリートとしてプロも注目しました。
 

本人もビックリだったドラフト1位指名

そして迎えた1989年のドラフト会議。佐藤はこの年のドラフト候補生ではありましたが、注目度はさほど高いものではありませんでした。

というのも、この年のドラフト会議の目玉はなんといっても野茂英雄一色。競合するのは間違いなしという評価でしたが、実際に野茂はドラフト史上最多となる8球団の競合に。指名したのは近鉄、日本ハム、ロッテ、大洋、阪神、ヤクルト、ダイエー、そしてオリックスの8チーム。抽選の結果、近鉄が交渉権を獲得し、残り7球団はハズレ1位の指名に切り替わりました。

ロッテが小宮山悟、大洋が佐々木主浩と後のスター選手を獲得しましたが、オリックスが指名したのは…社会人ナンバーワン外野手と呼び声の高かった佐藤和弘。野茂英雄のハズレとは言え、栄光のドラフト1位指名を勝ち取りました。

ちなみに佐藤も1位で指名されると思ってはいなかったようで、熊谷組の野球部寮で取材を受けた際、「『ちらーっと名前言わねぇかなー』なんて思いながら (テレビ中継を) 見てたんですよね。そしたら、ねぇ (ドラフト1位)。いやもう、おふくろは泣いちゃって、妹は『やめたらー』なんつってねぇ」とおどけるほどでした。

そして、当時のオリックス監督である上田利治から指名後のあいさつを兼ねた電話を受けた際、佐藤は球史に残る名言を残しました。

「(入団は)会社の方と相談して決めることですけれども、自分の心はひとつです!」……ちなみにこのフレーズは後にCMにも使われるほど全国レベルで有名に。佐藤の人気者っぷりがわかるエピソードと言えるでしょう。
 

ヒーローインタビューはパンチ佐藤の独壇場に!

ドラフト1位でオリックスへ入団することになった佐藤ですが、当時のオリックスと言えば、一塁には三冠王経験者のブーマーがデンと構え、そして佐藤の本職である外野には高橋智、本西厚博、藤井康雄らがレギュラーを務めるなど、即戦力を期待されて入団した佐藤にはあまりに厚い壁だったといえるでしょう。

それでもプロ1年目の1990年、佐藤は42試合に出場。ブーマーの故障時には本職ではない一塁も守るという器用な一面を見せながら打率は.331をマーク。明るいキャラクターだけではなく野球の実力も一流であることをキッチリと見せるなど、実りあるシーズンだったといえるでしょう。

翌年は46試合に出場し、前年1本しか放てなかった本塁打を2本打つなど徐々にプロの水に慣れてきた佐藤はこの頃からヒーローインタビューでお立ち台に上った後が話題に。そのユーモアあふれる回答はオリックスファンのみならずプロ野球ファンが注目するものでした。

その一例として挙がるのが、アナウンサーの「今日集まってくださった2万7000人のファンに、最後に一言お願いします」というリクエストに対して、佐藤の返答は……

「オリックス・ブルーウェーブ、並びにこの佐藤和弘のために、今日は12万5000人のファンの皆様、ありがとうございました」

ちなみに12万5000人というのは佐藤曰く、「嬉し涙でお客さんが多く見えたから」ということでしたが、実際はこの日行われたプロ野球全6試合の観客を合わせた数だったそう。プロ野球ファン全員から愛された佐藤らしい返答だったといえるでしょう。

しかし、この年を最後に佐藤は低迷。出場機会は年々減り続け、プロ入り4年目の1993年にはなんとたった3試合しか出場できず。新たに監督に就任した仰木彬の前で最後にひと花を咲かせるべく挑んだのが、背番号と登録名の変更でした。

プロ入り以来、佐藤は45番を付けていましたが、1994年からちょうど倍の数字になる90番に変更。さらに後輩にあたる鈴木一朗が「イチロー」という登録名でプレーすることになったため、佐藤もニックネームの「パンチ」に変更。佐藤の登録名変更は仰木のアイデアで、イチローひとりに注目が集中するよりも明るい性格の佐藤と一緒ならプレッシャーもなくなるのでは?という考えのもとで行われたといわれています。

心機一転、奮起を期待された佐藤でしたが、この年も主に代打として起用され23試合の出場のみ。佐藤も出場機会を求めてトレードを志願しますが、なかなか引き取り先が見つからず、シーズン終盤にはついには戦力外通告を受けることに。現役最終試合となった対近鉄戦では代打で出場した際、右中間へ豪快な打球を放ってヘッドスライディングを見せてのスリーベースヒットを記録。最後を華々しく飾って、5年の現役生活にピリオドを打ちました。
 

タレント・パンチの活躍はまだまだ続く

いかがでしたか? 俳優、タレントとしてのイメージが強いパンチ佐藤こと佐藤和弘ですが、実は野球選手としても活躍し、あのイチローと一緒にプレーした経験を持っています。

明るいキャラクターでバラエティ番組を魅了する佐藤和弘から、今後も目が離せません!