記録よりも記憶に残る!プロ野球個性派選手列伝~山本和範編~

80年以上の歴史を誇るプロ野球。その中では数々の名プレーヤーが生まれてきましたが、決して大記録を打ち立てた選手ばかりが目立ってきたわけではありません。ここでは華やかなタイトルこそないものの、チームに欠かせぬ名バイプレーヤーを紹介します!

プロ野球史上“最も泣かせる男”山本和範とは?

戦力外から這い上がり、2億円プレーヤーまで登り詰めた山本和範

間もなく2020年のプロ野球ペナントレースも開幕。2力月遅れの開幕戦を今か今かと待ちわびているファンも多いことでしょう。選手たちの全力プレーに熱狂し、時に感動することもありますが、プロ野球史上、最も多くの人を感動させ、涙を誘った選手と言えば誰でしょうか?

例えば、“ミスター・ジャイアンツ”こと長嶋茂雄。今や伝説となった天覧試合での本塁打やV9時代の巨人の中心打者として活躍する姿は紛れもなくスターそのもの。引退試合のスピーチで語った「我が巨人軍は永久に不滅です」というセリフは未だに多くの人たちの記憶に残っていることでしょう。

しかし、「感動させた」「ファンを泣かせた」という1点で言えば、山本和範も負けていません。長嶋が生まれながらのスターだとしたら、山本は言うなれば叩き上げの星。プロ入り後も何度も挫折を経験しながらも這い上がり、23年もの間プロ野球選手としてプレーした姿にファンは胸を打たれました。

では、山本和範とは、どんな野球選手だったのでしょうか?
 

幻に終わった巨人入り、近鉄入団後も開花せず……

プロ野球選手として通算1400安打を記録した山本和範ですが、戸畑商業高校時代は投手として鳴らしていました。甲子園大会などの全国大会には無縁の選手でしたが、180センチの長身から振り下ろすように投げるストレートは威力抜群でプロのスカウトも注目したほど。そんな山本を最初に高く評価したのは、くしくも長嶋茂雄が監督に就任したばかりの巨人でした。

山本は高校3年生の秋、自身の野球の実力を試す意味で憧れの巨人の入団テストを受験。そこで山本は先述のように本格派の投球が注目されてテストは見事に合格。本塁打の世界記録を打ち立てた王貞治に憧れていた山本は王と同じユニフォームが着られるということで大いに喜びました。

…しかし、山本は巨人へ入団することはありませんでした。テストに合格したのになぜ?と思われますが、この時の山本は高校を卒業するための単位が足りず、間もなく留年が決定します。プロ入りよりも高校を卒業することを優先させたため、巨人への入団は幻になってしまいました。

悲しい気持ちをグッとこらえて、1年の留年生活を送った翌1976年、山本は近鉄バファローズにドラフト5位で指名されて入団しました。山本が憧れていた巨人とは違い、当時の近鉄は優勝経験がなかったために在阪のチームの中でもかなり地味な存在。おまけに財政的にもさほど裕福ではなかったためか、アマチュア選手たちからの評判もイマイチでした。

実際にこの年のドラフト会議で近鉄に指名された6選手中、2人は入団拒否。4位指名の渡辺麿史は1年後の入団となったため、入団会見では山本を含め3人しかいないといういささか寂しい会見となりました。

晴れてプロ野球選手になった山本ですが、入団からわずか3力月後の春季キャンプ中にショッキングな出来事が起こります。それは打者への転向。当時コーチを務めていた仰木彬から山本は「打者に転向せよ」という指示を受けます。

実戦登板も一度もないまま投手としては事実上のクビ扱いになったショックは相当なものだったと思いますが、山本はそれも受け入れ、打者としてプロ野球選手としてのスタートを切りました。

ただでさえ同級生よりも1年遅れでの入団、しかも投手から打者への転向ということで出遅れを余儀なくされた山本でしたが、1日1000回という素振りなどの猛練習が実を結び、入団4年目の1980年の春にようやく光が差し込みました。オープン戦で結果を残した山本はその勢いのまま開幕スタメンの座をゲットします。

一気にブレイクするかと注目されましたが……結果はまさかの3三振。その後もヒットはなかなか出ず、5月10日の西武戦で松沼雅之から本塁打を放ったのを最後に二軍落ち。そしてそのまま昇格することはありませんでした。

二軍では3年連続で打率3割を記録した山本ですが、一軍に呼ばれると途端に不振に陥るという二軍の帝王の典型例に。さらに山本にはプロ入り前から右耳が難聴というハンデもありました。首脳陣の指示が聞こえづらかったり、先輩との会話が聞き取りづらく、結果的に無視するような形になったりしたことで次第に孤立していき、とうとう入団6年目の1982年に近鉄から戦力外通告を受けてしまいました。
 

バッティングセンターでの浪人生活から2億円プレーヤーに!

志半ばでチームから離れることになった山本和範。このまま引退して地元である福岡に帰るつもりでいましたが、山本を引き留めたのが同期入団で仲の良かった久保康生。久保の紹介で山本は大阪府内にあるバッティングセンターで住み込みのアルバイトをしながらプロ野球チームのテストを受けるために練習をするようになりました。山本は来る日も来る日もひたむきにバッティングマシーンに打ち込み続けましたが、そうした彼の姿を評価したのが同じ大阪に本拠地を置いていた南海ホークスの穴吹義雄監督でした。

もともと穴吹は山本が二軍時代から注目していて、自身が一軍の監督に就任したことをキッカケに山本の獲得を進言。シーズン途中の入団となりましたが、毎日バッティングセンターで打ち込んだことが功を奏して自己最多となる51試合に出場。そして翌1984年からライトのレギュラーに定着して、穴吹監督への恩返しを果たしました。

その後、1986年には監督推薦でオールスターゲームに出場、そして自慢の強肩を生かした守備が高く評価されてゴールデングラブ賞も受賞するなど一流選手として山本は大成。1989年に南海が身売りしたため、本拠地が大阪から福岡に移った際は地元出身の選手として九州エリアでは大人気の選手になりました。その後も勝負強い打撃と強肩を武器にチームの中心選手として大活躍を収めます。

そして迎えたプロ入り14年目の1994年。山本に転機が訪れます。そのコワモテな風貌がドラキュラに似ていることからファンやチームメイトから「ドラさん」と呼ばれていた山本ですが、それが原因で子供が学校でいじめられるように。球界屈指の家族思いの選手だった山本はその状況を打破すべく、自身の登録名を変更するように申請します。

シーズン途中で異例の措置となりましたが、7月から「カズ山本」に変更してプレー。この年は打撃も好調で規定打席に到達した年では自己ベストとなる打率.317を記録。この年の首位打者に輝いたイチローには及びませんでしたが、それでもリーグ2位の好成績だったことが高く評価されて、この年のオフに山本の年俸は2億円の大台を突破。一度クビになった選手が37歳にして2億円プレーヤーになるという大躍進を見せました。

ところが、年俸が2億円になったことが結果的に山本の足かせに。翌1995年は開幕早々に肩を故障して戦線離脱。その後も肩をかばいながらのプレーとなったことで出場試合数はダイエー移籍後最低となる46試合、打率も1割以上低下して.201という成績に終わりました。高すぎる年俸にこの年で38歳となる高齢がネックとなり、シーズンオフにはとうとう戦力外通告を受けてしまいます。
 

オールスターと引退試合の2つの本塁打

ダイエーでの実績は素晴らしいものがありましたが、右肩の故障明けの38歳の選手を獲得するチームはなかなか現れず、山本和範は年が明けた1996年、あるチームの入団テストを受けます。それはかつて自身をクビにした近鉄。右肩の故障はすっかり癒えて、往年の打撃を見せるように。その姿を見たかつてのチームメイトで当時の近鉄監督、佐々木恭介は「若手の手本になる」と太鼓判を押したことで入団となりました。

背番号もダイエー時代の29番を反対にした92番、そして登録名もカズ山本から本名の山本和範に戻して迎えた1996年のシーズン、山本は開幕戦から大暴れ。一時はイチローと首位打者を争うほどの大活躍を見せました。それに加えて長年苦労した経験からか山本はファンサービスも熱心に行う選手として知られ、いつしかファンからは愛される存在に。そのため、山本はこの年のオールスターゲームにファン投票で選出されて出場を果たします。

このオールスターゲーム第1戦、開催されたのはダイエーの本拠地である福岡ドーム。山本にとっては地元な上に古巣のグラウンド。それで燃えたのか、藪恵壹から決勝3ランホームランを放って見事にMVPを獲得。ヒーローインタビューでは「(本塁打を打てたのは)まぐれです」と大粒の涙を流しながら語り、ファンの心を奪いました。

その後も随所で勝負強さを見せてきた山本ですが、プロ入り23年目、41歳で迎えた1999年のシーズンはさすがに力の衰えが隠し切れなくなり、試合に出場するどころか一軍のベンチにすらいない日々が増えるようになりました。

若返りを図りたいチームは山本へ引退を勧告しましたが、山本の希望はあくまで現役続行。そのため、佐々木監督は山本の地元である福岡でのこの年最後の試合となる9月30日のダイエー戦に山本を指名打者としてスタメン起用。今季限りで退団するのであれば、せめて最後にファンの前に山本の雄姿を見せようという思いからこの年一軍出場ゼロの山本をスタメンで出場させました。

この試合で山本は安打を放つなど活躍を見せましたが、最大のハイライトは9回表。4対4と同点のまま迎えたこのイニングからダイエーはこの年14勝0敗という圧倒的なピッチングを見せていた篠原貴行を起用。この回に巡ってくる第4打席が現役最後の打席となる山本からしたらかなり厳しい相手。実際に篠原はあっさりと2アウトを取り、山本と対戦しましたが……ここで山本が爆発します。

篠原の投じたストレートを山本はフルスイング。打球はそのままグングンと伸びて、ライトスタンドへ飛び込む決勝本塁打に。ダイエー、近鉄両球団のファンから大声援を受け、試合後には敵地でありながら花束を受け取り、場内一周してファンへ挨拶した山本の姿に多くのファンは感動し、その姿に涙しました。

山本はこの時、「この先現役を続けても、これ以上の感動をファンに与えることはもうできない」と考え、試合後に引退を決意。不死鳥の如く復活し続けた山本のプロ野球人生に幕が下りました。
 

山本の想いは球児たちへと受け継がれる

いかがでしたか? 2回も戦力外通告を受け、一時的とはいえ浪人生活を経験しながらも復活するという記録よりも記憶に強烈に残る選手となった山本和範。ちなみに山本は引退後、故郷である福岡県北九州市に拠点を移して、自身を育ててくれたというバッティングセンターで無料の野球教室を行い、ソフトバンクが主催する野球スクールで講師を務め、さらに北九州市立子どもの館では館長として子供たちに野球を教えるなど、自身の体験を子供たちに伝えています。

もしかしたら数年後、山本の教えを受けた選手たちがプロの世界で活躍する日が来るかもしれませんね!

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