人に何かを伝えるとき、「うまく話せない」と感じたことはないでしょうか。
同じ体験でも、分かりやすく話せる人とそうでない人がいます。その違いは単なる“話術”ではなく、ある2つの力にあると、直木賞作家・小川哲さんは語ります。
本記事では『斜め45度の処世術』(小川哲・著/CEメディアハウス)より一部抜粋し、小説家ならではの視点で「説明上手になるために必須な2つの能力」を解説します。
「その話、いらないかも」と思う瞬間
話が上手な人と、下手な人がいる。客観的な指標があるわけではないので、正確に分けることは難しいと思うけれど、自分自身が「上手なほうだと思う」とか「下手なほうだと思う」とか、そういった自己評価を持っているはずだ。
僕自身が上手なのか下手なのかはさておき、友人とふたりで遊んでいる時に変わった出来事を体験して、その体験について友人が第三者に話をする際に、「その話はしなくていいのに」とか「その話は次の話をした後で説明したほうがわかりやすいのに」とか、横で指摘をしたくなったことは一度ではない。
実際にどうしても我慢ができずに「ああもう、僕が話すよ」と引き取ってしまったことも何度かある。
小説家はなぜ“話がうまい”のか
小説家になって知ったのだが、意外なことに小説家の多くは話が上手い。
小説家というと「人嫌い」で、「孤独に生きている」イメージがあると思うし、実際にそのイメージはそれほど間違ってはいないのだが、人が嫌いなことと話が上手いかどうかは関係がないようである。
どうして小説家は平均よりも話が上手いのか(エピソードを的確に話すことができるのか)というと、「小説を書くという行為」と「第三者に話をするという行為」に必要とされる能力が近しいからだと思っている。
説明のうまさはどこで決まるのか
先日、とある商業施設でガラス戸を押し開けようとした際に、向こう側から歩きスマホの男性がガラス戸に衝突してきて、その反動に押し戻されてしまったことがあった。
男性は「あ、すみません」と言いながらその場から去っていったのだが、去り際に小さく「じどうじゃないんだ」と呟いていたのが聞こえた。
僕は初め「歩きスマホをしていた男性が、僕のことを『児童』だと勘違いしていたのだろう」と考えていたのだが、少し経ってから「『児童』ではなく『自動』のことで、自動ドアだと思ってそのまま進んだら手動のドアだったせいで衝突してしまったことを呟いていたのではないか」という考えに訂正した。
という、どうでもいい話を僕はいままさに説明した。
この話のポイントは「じどうじゃないんだ」という言葉の解釈を巡る僕の思考の更新である。
そのために僕が商業施設にいたことや、ガラス戸を押し開けようとしたことなどを説明している。
この話をするために、たとえば僕が打ち合わせのために外出していたことや、その打ち合わせで会う相手へ手土産を買うために商業施設に入ったことなどを説明する必要はない。「なんのために商業施設を訪れていたのか」という話は、今回の話と関係がないからだ。
加えて言うと、僕が訪れていたのは「ハラカド」という原宿に新しくできた商業施設なのだが、これを読んでいる人がハラカドを知っているとは限らないし、ハラカドでなければいけない必然性もないので、「とある商業施設」という言葉を使った。



