さらにブラトップで街に繰り出す「LifeとWear/ホップステップ夏編」では肌に溶け込む自然な日常着として健康的で軽やかなイメージを打ち出したブランド側に対し、「下着っぽくて落ち着かない」といった反応も。この背景には、日本社会が裸や肌の露出をどう意味付けているか、根深い文化的前提がありそうです。
日本人にとっての裸=消費されるもの
日本では、肌の露出や裸は、しばしば「性的なアピール」や「誰かに見せるためのもの」として解釈されます。例えば、若い女性の肌見せは「モテ狙い」「あざとい」と受け取られ、年配女性の場合は「年甲斐もない」と批判されることもあります。日本において肌は勝負の武器とされ、少しでも露出すれば、性的な視線を集めたり、嫉妬や嫌悪、警戒の感情を引き起こしやすいと考えられます。
この「裸=消費されるもの」という価値観は、明治以降に強まったものだと言われています。江戸時代までは、大衆浴場での混浴や裸での川遊びは生活の一部であったとされ、近代化の過程で西洋からキリスト教的道徳観が流入すると、裸は人前で見せるべきではないという規範が急速に広まったのです。
やがてその規範は、単に隠すべきものという枠を超え、「見せる=特別な意味を持つ」という感覚に変化していったのかもしれません。
ヨーロッパから輸入した価値観が残る日本
興味深いのは、この規範の源であるヨーロッパが、現在では日本よりもはるかに裸に寛容だという点です。古代ギリシャ・ローマでは、裸は美と力の象徴であり、スポーツや芸術で積極的に表現されました。中世になるとキリスト教の価値観が支配的となり、裸は原罪や堕落の象徴として抑圧され、公共空間から姿を消しました。しかしルネサンスでは古代の価値観が復活し、芸術における裸体表現が再び解放されることとなりました。
その後、19〜20世紀初頭には再び道徳的抑圧が強まっており、日本にはちょうどこの時期に「裸体は恥ずべきもの」という価値観が伝わったのでしょう。
ところが第2次世界大戦後、ヨーロッパではヒューマン・ライツ(人権運動)やフェミニズム運動が台頭し、個人の自由や自己表現を重視する流れの中で、裸は再び自然なものとして受け入れられるようになったようです。開放的な裸体や下着姿はビーチや広告の中だけにとどまらず、街中での肌の露出もごく日常的なものとなりました。
そして現在では、裸は必ずしも「誰かに見せる勝負カード」ではなく、「自分が快適であるため」「季節や場所に合っているから」という理由で選ばれているように見えます。
ユニクロCMのすれ違い
ユニクロは、こうしたヨーロッパ的な「自然体としての裸体観」に近い発想でブラトップを打ち出したのかもしれません。健康的で日常的な肌見せを肯定し、「下着でも部屋着でもなく、街にも着ていける」という新しい位置付けを示したかったはずです。しかし、日本の文化的前提は異なります。下着に近いアイテムを外で着るという提案は、「公の場で下着姿を見せている」と受け取られやすくなります。ブランドの訴求ポイントが快適性や機能性であっても、視聴者の頭の中では性的アピールや異性へのメッセージに変換されやすかったのではないでしょうか。そのすれ違いが、今回のCMへの賛否を生む要因となったと考えられます。
かつてヨーロッパと同等以上に裸に寛容だった日本が、近代化で「裸=恥ずかしい」という価値観を輸入し、その間にヨーロッパは再び裸に寛容に。現在の日本はというと、かつて輸入した価値観を固持したままヨーロッパと真逆の位置に立っています。
この日欧の価値観の差を理解すると、日本がいまも抱える「裸=消費・性的」という文化的前提と、それに真っ向から切り込むマーケティング戦略との距離感が鮮明に浮かび上がって見えるのではないでしょうか。
この記事の筆者:ライジンガー 真樹
元CAのスイス在住ライター。日本人にとっては不可思議に映る外国人の言動や、海外から見ると実は面白い国ニッポンにフォーカスしたカルチャーショック解説を中心に執筆。All About「オーストリア」ガイド。



