
現代で“蔦屋(つたや)”といえば、音楽・映像ソフトのレンタル店の「TSUTAYA」や書籍・雑誌販売店「蔦屋書店」を思い浮かべる人が多いでしょう。大河ドラマの主人公・蔦屋重三郎とTSUTAYAや蔦屋書店は関係があるのでしょうか。「All About」学習・受験ガイドの宮本毅が解説します。
(今回の質問)
「蔦屋重三郎」はTSUTAYAと関係ありますか?
(回答)
まったく関係ないようです。TSUTAYA運営会社の創業者である増田宗昭氏が、祖父の経営していたお店の屋号「蔦屋」にちなんで「TSUTAYA」と命名したそう。蔦屋重三郎と増田氏も血縁にはないようです。
TSUTAYAは蔦屋重三郎とは直接関係ない
筆者も学生の頃は、TSUTAYAは蔦屋重三郎(通称・蔦重)の子孫が創業したのかと思っていましたが、実際には血縁関係はないようです。『NHK2025年大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」完全読本』(産経新聞)によると、TSUTAYAを運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブの会長で、TSUTAYAの創業者である増田宗昭氏の祖父が、昭和初期ごろに営んでいた置屋(芸者や遊女を抱え、客の求めに応じて料亭などに芸者や遊女を派遣するなりわい)の屋号が「蔦屋」だったそう。
なぜ祖父が屋号を「蔦屋」にしたのかはっきりしたことは分からないようですが、増田氏によると「もしかすると祖父は蔦重のことを知っていて、それにあやかって屋号を『蔦屋』にしたのかもしれません」とのことです。
蔦重は“江戸の名プロデューサー”だった!?
蔦重は1750年2月13日に遊郭の街である新吉原(現在の東京都台東区)で産まれたとされています。新吉原とは、元は日本橋にあった吉原が1657年に起こった明暦の大火によって焼失し、その後幕府の命令で浅草寺北の(にほんづつみ)付近に移転して作られた遊興場です。そんな華やかなところで育った蔦重は普段の生活の中で最新の文化に触れる機会も多く、それが後に化政文化の隆盛に大きく貢献する文化人の素地を作ったと言えるでしょう。
蔦重は23歳の時に、新吉原の中で最もにぎわっていた五十間道と呼ばれるメインストリートに書店を構え、風俗情報誌・吉原細見を販売。しかし、出版元である鱗形屋孫兵衛が処罰されたことにより、吉原細見の刊行が難しくなってしまいました。そこで蔦重は『籬の花(まがきのはな)』という新たな吉原細見を刊行するようになり、版元としての地位を確立していきます。
その後は黄表紙(大衆向け娯楽本)や洒落(しゃれ)本・狂歌本といった、歴史の教科書に載るような刊行物を次々に発行し、喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽ら有名絵師や、曲亭馬琴(滝沢馬琴)や十返舎一九などの作家を次々に採用しました。誰をとっても歴史の教科書に載っているすごい人たちです。
黄表紙や浮世絵は江戸後期の文化の中心的な存在であり、絵師や作家は今でいうインフルエンサーです。そうした超有名インフルエンサーを世に輩出していった蔦重は、まさに傑出したプロデューサーであり、プロモーターであったと思います。
そんな蔦重と、平成で一大ブームを巻き起こしたTSUTAYAにはどこか共通点のようなものがあるように感じられます。
この記事の筆者:宮本 毅
算数・国語・理科・社会の4科目すべてを指導する塾講師。生徒のやる気を引き出し、自立学習のさらに先にある「自発学習」を目指す。著書に「はじめての中学受験」「ゴロ合わせで覚える理科85」などがある。
算数・国語・理科・社会の4科目すべてを指導する塾講師。生徒のやる気を引き出し、自立学習のさらに先にある「自発学習」を目指す。著書に「はじめての中学受験」「ゴロ合わせで覚える理科85」などがある。