このシステム下では例えば、リレーの選手に選ばれるような俊足の子どもが5着になることもある。その逆に『ドラえもん』の“のび太”のように運動神経が悪い子どもがトップになるようなレースもあるのだ。
「無気力な子どもをつくらないため」のシステムだが……
このシステムについて今、一部で議論になっている。「足が速い=モテる」という時代の小中学校を経験してきた世代からすると、これは足の速い子どもの努力や才能が正当に評価されないし、足の遅い子どもにとって「負ける悔しさ」を教えることができない。結果、子どもの競争心が育まれないと主張している。一方、教育関係者などからすれば、このシステムが多く導入されているのは「無気力な子どもをつくらないため」だという。自分よりも圧倒的に足の速い子どもと同じ組だと、「どうせ何をしても無駄」と捨て鉢になってしまう。しかし、このシステムを導入することで、より多くの子どもに「やればできる」という「随伴経験」の機会を設けることができるのだ。
どちらも「なるほど」と思う部分はある。ただ、個人的にはどちらのシステムを採用したところで、日本の子どもたちの競争心や「やればできる」という気持ちが育まれることはないと思っている。
競争心や「やればできる」気持ちを殺す日本の運動会
運動が得意な子も苦手な子も十把(じっぱ)ひとからげにして、本人たちの意志と関係なく競争と努力を強制する「運動会」というシステム自体が、子どもの競争心や「やればできる」という気持ちを殺しているからだ。よく言われることだが、日本のように、子どもを全員参加で走らせたり玉入れで競わせたり、人間ピラミッドをさせたりする「運動会」は珍しい。かつて日本が統治していた韓国、台湾、あるいは近代化を目指す過程で日本を「手本」とした東南アジアなど一部の国だけしか見られない“少数派”の教育スタイルだ。ほとんどの国で教育現場にあるのは「自由参加のスポーツイベント型」、あるいは「運動エリートの競技会」である。
当然、ここまで紹介したような議論も起きない。足の遅い子、運動に興味がない子は、これらの学校行事では応援や観戦にまわる。中にはそもそも参加もせず、その時間は自分の趣味や得意分野に力を注ぐ子もいるのだ。